横尾忠則さんとあたらしいわたし

「今の時空間に閉じ込められた自分はまだ本当の自分ではなくて、切り抜かれてどこかへ行った先で、どこかもわからない先で、どこかもわからないところから来たあなたと出会いたい。それは運命の出逢いでもあるし、本当の自分自身を知る旅なんだ。」(穂村弘)

これは横尾忠則さんの展覧会「GENKYO」でのオンラインイベント、穂村弘さんの発言だ。お時間がある方はぜひトーク(https://genkyo-tadanoriyokoo.exhibit.jp/events/online-event.html)をご覧いただきたいのだけれど、横尾忠則さんと穂村弘さんは一緒に「えほん・どうぶつ図鑑」という絵本を出している。その絵本は「動物を切り取って遊ぶ」ことのできる仕様になっていて、切り取られた動物たちはいろんなページに遊びにいくことができ、さらに切り取られた影が隣のページに出現する楽しい仕かけになっている。上記の発言は、その共同作業や展覧会をとおしての言葉だ。

新型ウイルスが世界に蔓延しだしてから、わたしは外出することが怖くなってしまった。大好きだった美術館にももうずいぶん行っていない。美術館での感染リスクはあまり高くないかもしれないのだけれど、美術館に行くまでの公共交通機関でふいにもらってくるかもしれないし、憂鬱な気持ちになってまで休日どこかへ出かける気になれない。直接見に行けない代わりに、画家に関する情報をテレビやインターネットで調べるようになった。今までは美術館に行って絵そのものだけを鑑賞していたけれど、最近は画家の人となりをネットで調べたり、その絵を鑑賞した方の感想などをよく聞くようになった。横尾忠則さんの展覧会も本当は見に行きたかったのだけれど、行けない代わりに展覧会のオンラインイベントを見ていたのだ。

穂村弘さんの発言にピンと来たのには理由がある。最近読んだ本にも似たようなことが書いてあったからだ。
「ぼくたちは環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能なことでしかない。あなたは、あなたの環境から予想されるパラメータの集合でしかない。」(東浩紀「弱いつながり」kindle p.73)

わたしたちはどこでもドアがない限り、この空間に閉じ込められていると言っていい。仕事をしている人は家と職場以外の空間にいることはほとんどないだろう。そう思うと、それはなんだかちょっと息苦しいことだ。そんなときに横尾忠則さんの絵を見ると、楽しそうにみんなで救急車に乗っていたり、故郷の居間にちいさな地球が浮いていたりしていて、おおよそ現実ではありえない光景ばかりだ。そういう現実とパラレルワールドの自由な取り合わせに、鑑賞者は今感じている息苦しさを一瞬忘れるのかもしれない。

先日、定期検診のためにひさびさに病院に行ってきて、一年半ぶりに美容院で髪の毛を切ってきた。すこしずつ外出できるようになってきているけど、やっぱり絵本のように簡単にわたしは自分自身を切り取ることはできない。最近思うのは、わたしはコロナが怖いから自室にこもっているのではなく、自室にこもっているからコロナが怖くなっているのかもしれないということだ。できることならわたしもこの環境から別の環境に身をうつして、あたらしいわたしに出会いたい。たぶんそのほうが人生は豊かだ。だって、横尾忠則さんの絵のなかの世界はあんなにも楽しそうなのだから。

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