言葉の海を漂い

「文字」に価値は無くなった。SF小説の冒頭一行ではない。今、現在、令和は三年の、この時代である。

思えば「文字」というものに価値があったのは、「文字」というものが生まれて数年間のことだったのかもしれない。次第にそれが広まるにつれて、「価値あるもの」ではなく「なくてはならないもの」となり、最終的には「あって当たり前のもの」となってしまった。

日本人はそこそこの確率で「日本語は美しい」と言う。どこが美しいのか、と尋ねてみれば、情緒が、趣が、風流が、といった、擦りに擦られてもう肉眼では確認できないような言葉が返ってくる。日本語にそのような感情を抱くのは日本人だからで、それが自分の思い通りに動いてくれる母語というものだからだ。私は日本人なので詳しいことは分からないが、おそらくアメリカ人は「英語は美しい」と言うだろうし、ブラジル人は「ポルトガル語は美しい」と言うだろう。「どこどこの国と比べて、」とかそういう意味ではない。それが母語で、自分の思い通りに操ることができ、一番自分の感情を表すのに適しているからである。私自身「日本語は美しい」と思っているが、「日本語」よりずっと「関西弁は美しい」と思っている。それが私にとって一番感情をぶつけることの出来る「母語」であるからである。

言語や「言葉」というカテゴリそのものを美しいと捉える人はまだ多いとはいえ、紡がれた言葉そのものに興味を持つ人々は少ない。小説や歌の歌詞に惹かれるのは、言葉そのものへの愛ではなく、「それを紡いだ人への愛」によるものだ。結局言葉そのものに価値は無く、「言葉を発する人」に価値があるのである。

であれば、価値があると認められなかった人間の紡ぐ言葉には、何の意味もないだろう。何の意味も無いのだ。私の紡ぐ言葉には、何も意味は無い。日本という国に生れ落ち、日本語という言葉を、関西弁という言葉を用いて言葉を発するのは至極当然のことである。当然のことを、当然のように行なっているだけの人間である。そこに価値は無い。当たり前のことを、当たり前のように行なっているだけなのだ。

そうして流れ着く先は、廃墟である。行き場を無くして彷徨い、見つけた先は廃墟である。ここでは誰の邪魔も無く、価値を付けることも強制されないという。廃墟とはよく言ったものである。ここは私にとっての楽園ではないか。溢れ出し、誰にも守られなかった言葉を放出し、いつしか廃墟は言葉の海に飲まれるだろう。そうして出来た真っ黒い海で、私は漂いながらオフィーリアの如く命を吹き消したいとすら思うのである。

mazireal