37歳ではじめてゲームをやってみたはなし

あれは本物のゴリラか? いや、違う。金髪の角の生えたゴリラみたいな生き物だ。そしてその金髪ゴリラは突然、うおおおおおお! と雄叫びをあげる。その瞬間、目の前の景色は金色に輝いて、何もかもが明るく輝いた。一瞬の隙。油断した。こんなまぶしさは死ぬ前にしか見ないだろうし、案の定、手に持っている任天堂スイッチライトの画面は「ゲームオーバー」の知らせが出ていた。そのモンスターの名前はラージャン。このゲームのなかでわたしが一番好きなモンスターだ。

これは「モンスターハンター ライズ」というゲームだ。知っている人も多いかもしれないが、このゲームはとても人気のあるシリーズで、2004年に発売されてから何度もあたらしいシリーズが発売されている。実はこの歳になるまでゲームというものをしたことがなかった。ゲームボーイ、スーパーファミコン、プレイステーション、ウィーユー。幼少期は目が悪かったため両親からゲームを禁止されていたが、大人になってもゲームをやろうとは思わなかった。ゲームなんてどうせ仮想空間だし、十代の子どもがやるものだと思っていたのだ。けれどある日、好きなひとに「いっしょにモンハンやろうよ」と誘われたのだ。そんなこと言われたらやらないわけにいかない。とりあえず任天堂スイッチライトを用意して、なんだかよく分からないままモンスターハンターを買ってしまったのだ。

モンスターハンターはアクションゲームだ。それなりにゲーム機のボタン操作を素早く行わないとモンスターにやられてしまう。ゲーム初心者のわたしにとって、手際よくボタンを押すことは大変なことだった。だけど、回数をこなすうち下手なりにも慣れてくる。そして徐々に「モンスターの動きの法則」がわかってくる。ラージャンは、左右のパンチを交互に八回地面に打ちつけ、うしろをくるっと振り返ったとたん、さらに回転しながら遠くにジャンプする。その瞬間、後方に大きく飛ぶ。そうして前方へ両手をついて激しく打ちつける。ときどき、うおおおおおお! と唸り声をあげる。このときすぐに避ける準備をしなければいけない。そう思った次の瞬間には、ラージャンの口からは金のビームが発せられて、これを浴びるともう即死なのである。

先日、「めちゃくちゃ強くなったラージャン」がイベントとしてゲームに登場した。何度やっても勝てない。もう一度ラージャンの動きをよく観察をすることにした。ラージャンの動きに合わせて、わたしの動きもわずかに修正を加えていく。あと30度後ろ方向に避ける。あと1秒早く逃げ出す。モンスターがどういう動きをするのかよく理解したうえで、タイミングを間違えずに大剣を振ったりかわしたりする。モンスターの攻撃を上手く避けられるととても嬉しい。しかし、今回はどうやっても倒せない。考えた挙句、ステージに用意されているモンスターが眠るカエルや、モンスターの行動が遅くなるフンコロガシ、モンスターを広い場所に誘導する小型動物など、ラッキーアイテムも幅広く利用することにした。

そして先日、ついに「めちゃくちゃ強くなったラージャン」を倒すことができた。モンスターハンターを始めたころは、最初どうやって走るのかもわからなかった。Rボタンを押すと早く走れること。Aボタンを押すと大剣で攻撃できるということ。崖を上手く登れずにものすごく遠回りして目的地に走っていったこと。体力を回復する薬を飲むタイミングが遅れて、死んでいったこともあった。何度も倒されてはそのたびにクエストに挑戦した。そのめちゃくちゃ強くなったラージャンを倒した瞬間、とても嬉しかった。なぜ嬉しかったのだろうか。それは、ラージャンを殺したからではない。その瞬間、なんだかラージャンの制作者に会えたような気がしたからだ。

正直、モンスターを殺すゲームなんて趣味が悪いと思っていた。今までのわたしは、休日には現代アートの展覧会に足を運び、その帰りに読書カフェで五穀米の入りの体に良さそうな和食ランチを食べて、女性が書いた詩集をまったり読むような人間だった。ガチャガチャとボタンを押して剣を振り回すゲームをすることからは程遠い人間だったと思う。だけど実際にモンスターハンターをやってみて感じたのは、ただ単にモンスター殺すゲームではないということだった。たとえば、絵画とゲームの鑑賞方法の違いを考えてみる。一般的な絵画は、作品を発表する人と作品を鑑賞する人という、コミュニケーションで言えば一方通行的な関係性が色濃い。そうして良い作品は鑑賞者の心のなかに生き続けていくこともある。さらにはその絵画によってわたしたちの行動が変わることもあるだろう。

それに対してゲームはどうだろうか。ゲームは、その作品を最後まで鑑賞するためにはわたしたちのリアクションがどうしても必要となる。ゲームは絵画などとは異なり、作品をプレイヤーも一緒に作り上げていく要素が入っている。ラージャンと上手く呼吸を合わせて、ラージャンの隙をついて大剣を振り下ろす。それはまるで、遊園地でよく見るヒーローショーでの戦闘シーンのようだ。あれはどちらかというと殺し合いというよりかは息がぴったりのダンスに近い。敵の動きをよく知っているからこそショーができるし、モンスターのことをよく分かっているからこそ一緒に踊ることができる。そうしてゲームをクリアすることができるのだ。

ラージャンはプログラミングされたゲーム上の架空の生き物だ。だけどそれを作った人は現実に生きている。ゲームの制作者はラージャンを倒すための、クリアするためのいくつかの道筋を設計しただろう。わたしはそのなかから初心者用の地道に倒すひとつの道を探しあて、下手くそながらその道を進み作者の想定するゴールに到達した。ひょっとしたらゲームというものは、目の前のモンスターを理解し、そのゲームを理解し、ゲームを作成した人物を理解しないとクリアできないものなのかもしれない。そう思った瞬間に、今までゲームは仮想空間だからと、子どもがやるものだからと敬遠していた自分を恥ずかしく思った。わたしは、ゲームを含め自分の肌に合わないものに対し、知覚し理解するということを放棄してきたのだった。もともとわたしはモンスターを殺すゲームなんて趣味が悪いと勝手に決めつけていた。けれど実際はそうではなかった。仮想空間だったのはゲームではなくわたしの脳内だったのだ。そんな自分がゲームのなかのモンスターを理解しようとし始めている。それはわたしのなかで大きな変化であり、感動するひとつの出来事だった。わたしのなかにいる、なにかを理解しようとしない、知ろうともしない、世界をばらばらの分断へ導く「本物のモンスター」が顔を出し、ちょっとでも油断をするとラージャンはそのモンスターに向かって思い切り光のビームを吐く。そうしてわたしはゲームオーバーになり、また人生に挑戦することになるのだ。

zaboom