どこにもいない『私』を探して

有名な人体実験に、鏡に向かって「お前は誰だ」と問い続けると発狂する、というものがある。いわゆる『ゲシュタルト崩壊』を引き起こす、例のアレである。

誰もが一度は耳にしたことがあり、また誰もが一度は実行したことがあると思う。かく言う私も、実践した人間の一人だ。結論から言うと、私は非常に忘れっぽいので実行し始めて数日でその習慣を忘却の彼方に葬ってしまった。実験の結果は不明である。

とはいえ、この実験を実際に実行した人はお分かりかと思うが、確かに不思議な感覚に陥るものなのである。発狂、という状態に行くまではおそらくかなり長い時間、それも鏡の前から一歩も離れずに数時間、数十時間を過ごさねばならないのだろう。しかし、発狂とまではいかないが、まるで自分の意識が切り離されて浮上し、実際に自分ではない人間と向き合っているような、そんな不思議な感覚に陥る瞬間が必ず来るのである。

なぜ今になって、数十年前のネットミームのような、すっかり廃れた話を持ち出してきたかと言うと、今現在の私がその『ゲシュタルト崩壊』のような状態になっているからである。発狂とまではいかなくとも、自分の意識がどこかに浮上して誰でもない人間と対峙しているような、そんな感覚。鏡の前にいるわけではないのに、である。

今私は、ほぼ毎日、「お前は誰だ」と自分自身に問い続けている。一体お前は誰だ。確かに名前や性別や年齢や住所ははっきりしている。でも、私はこいつのことを何も知らないのである。好きな食べ物はなんだ。好きな服はなんだ。何が趣味で、何が好きで、何が嫌いで、何を目指し、何をして過ごしているのか。一体どういう人間なのか。何一つ分からないのである。だから毎日問い続けている。お前は誰だ。一体何者だ。

個性、という単語がある。単語の意味自体は非常に単純で、『特有の性格・性質』を表す単語だ。しかし、この単語が包含するものはあまりに大きすぎる。今自分にある個性は、本当に『個性』だろうか。生まれてから今に至るまで、私達は濁った水に浸かり続けている。あらゆるものを見て、あらゆるものを聴き、あらゆることを考え、あらゆる人に出会って生きてきた。そんな自分に今ある個性は、本当に『特有の性格・性質』を表しているんだろうか。誰かに影響を受け、何かに影響され、『特有の性格・性質』に上書きして出来た現在の個性は、本当に『個性』と呼べるのだろうか。

そう考えるとき、私は、私の中から色んな人間が飛び出してくる感覚に陥るのである。私の中にあるのは個性ではなく、『私が影響を受けた物や人のカケラの集合体』で、『特有の性格・性質を持ったオリジナルの私』は存在しない。だから、「お前は誰だ」と自分に問いかけるとき、その集合体がばらばらと崩れて、空っぽの器だけがぽっかりと口を開けている、その様を上から見下ろしているような、そんな気分になるのである。

「お前は誰だ」と尋ねて口を開けるその空っぽの器、それが本当の『私』なのだ。私は、何者でもない。誰でもない。『私』はおそらく、どこにもいないのである。

mazireal