二束三文の価値しかない文章

私は、芸術が分からない。三億円の絵画を観たところで「私にも描けるんじゃないのか」と思うし、パリコレなんかを観てても「何を見せられてるんだ?」という気持ちにしかならない。分かる人には分かるんだろうが、低学歴で教養も無く記憶力も無くておまけによく腹を壊すニートには何も分からない。世界の人口を分母にして考えた時、芸術を理解することができる人は一体何人いるのだろう。きっと理解できない・興味が無い人の方が多いのではないか。そんな世界で生活をするためには、なるほど、芸術というものを仕事として選びたいというのは「足しにならない」ことなのだろう。いや、本当は芸術を理解できる人なんて、世界にはこれっぽっちもいないのかもしれない。やることがすっかり無くなってしまったお金持ちの人たちが集まって、自分は価値を付けづらい物に価値を付けることができると見栄の張り合いをするために生まれたのが芸術なんじゃないのか。だからもしこの世界の人間の価値が完全に平等になったとき、多数決をしたら、今現在優れているとされている芸術も、もしかすると二束三文の価値しかつかなかったりするのではないか。

芸術なんて、価値を付けるものじゃない。みんな頭では分かっているはずなのに、なぜかそうすることを辞めない。本当は、価値をお金なんかで換算するものではなくて、人の心がどれだけ動いたかによって判断すべきなのだろう。だとしたら、三億円の価値がついている絵画も、この世界の大多数が無関心であるなら、それは芸術と言えるんだろうか。心がどれだけ動いたかを重視して芸術を決めるのであれば、よっぽど「クレヨンしんちゃん」の映画の方が人の心を動かしているだろう。

つまりは、芸術に価値を付けようというその行為自体がすっかり間違っているのだ。先程は大変失礼なことを述べてしまったが、三億円の絵画に三億円の価値が無いと言いたいわけではない。その絵画を、数週間、数か月、数年、もしくは生涯を費やして生み出した作者がいるのだ。その作者に表する敬意が「金銭」という目に見える物にすり替わってしまっただけなのだ。

結局、創作物の価値というのは、やはり「創作物そのもの」に生まれるわけではない。創作者に敬意を表するものとして生まれるべきなのである。そう考えると全て合点がいく。三億円の絵画も、アニメ映画も、ネットの海の中で溺れては消えていく叫びも、根本を辿れば価値は全て同じであるはずなのだ。

mazireal