幸せは、人に厳しく、抱きしめちゃくれない

「幸せ」って一体なんだろうか。幸せになりたくて色んなことをやってみるけど、結局「幸せ」は追いかければ追いかけるほど遠くに逃げていくのだ。それもそのはずで、私は「幸せになりたい」と願いながら、ずっと「幸せになりたくない」と思っている。幸せになるのは怖いことだ。

ふとした瞬間に、「幸せ」というものが自分の近くに現れることがある。美味しい物を食った時、何か喜ばしいことが起きた時、大袈裟に「幸せだ」と思ってしまったりする。その瞬間に怖くなり、私はせっかく近くに擦り寄って来た「幸せ」を、突き飛ばして遠ざけてしまうのである。まだ、私は幸せになるわけにいかない。私のようなものが「幸せ」であると、声を上げてはいけない。発作のように私は手を突き出して、「幸せ」を追い払うのだ。こっちに来るな、お前が来たらすべてが「終わってしまう」。一体何が終わるのか? それは正直、私にも分からない。でも確かに私が「幸せである」と口にしてしまった時、自分の中で何かが終わってしまう気がするのだ。これまで数十年間一緒に生きてきた何かが、その瞬間に意味を持たないものになってしまうような、そんな気がするのだ。そんなとき、私は必死になって、封をしたはずの過去をわざわざ出してきて、その箱を開けてしまう。箱から飛び出す、忘れるつもりだった、忘れてしまいたい、昔の黒歴史、愚行、妬み、嫉妬、怒り、悲しみ、苦しみ。もう少しでゴミ収集車が来るところだったのに、私はまたそんなゴミを大切に大切にゴミ捨て場から持ち帰ってきては、中身を確認して顔をしかめる。そして、どうして持ち帰ってきてしまったのだろう、こんなもの無ければいいのに、こんなものを捨てられないのだからやっぱり私は全然幸せじゃない、と、自分で幸せを締め出してしまう。

「幸せ」という状態になるためには、私が捨てられない「ゴミ」を捨て去って、「幸せ」で上書きしてしまわなければならない。でも「不幸」は、私が大事に取ってある感情を肯定してくれる。お前が抱いた感情は全て間違っていなかったと微笑んでくれる。良薬が口に苦いのと同じで、幸せは人に厳しい。逆に不幸は、常に人に優しい。だから人間の奥深くまで侵食して、誰も手放せなくなっているのだ。自分が世界で一番不幸で可哀想な人間であると思いたいのだ。

そんなことを思いながら、今日もゴミ捨て場から持ち帰って来たゴミを抱きしめる。ゴミは抱きしめ返してくれないが、何も抱きしめていないよりは、随分暖かいのだ。

mazireal