フィンセント・ファン・ゴッホの左耳のために

 

スマホの明かりを見続ければ頭痛が起こるし、夏の太陽の光を浴びればひどいかゆみに襲われる。特に右腕のかゆみがとてもひどくて、かいてしまった箇所は肌が赤みを帯び、ひどい炎症を起こしていた。こんな風にことごとく光というものにやられてしまうから、わたしはいつも暗い場所を探してそこを転々とするほかなかった。それはもちろんわたし自身の性格に影響を及ぼしたし、その反動でいっしょに暮らしていた夫はどんどん明るい性格になっていった。

 

フィンセント・ファン・ゴッホの左耳のために歌う曲を探している。頭痛が起こればロキソニンを飲むし、肌荒れにはステロイドを塗るけれど、そういうことじゃなくって、つまりは問題を解決するためのツールを知りたいんじゃなくて、わたしたちはもっと大きなことを成し遂げるために必要なそれを探している。あんなに音楽をたくさん聴いてきたのに、歌える曲なんてほんのわずかしかなくて、スポティファイのなかを上から下まで探している。ビルボードに載った曲、こどもから大人まで知ってる曲、そしてわたしの好きな曲、いろんな曲があるけれど、そのどの曲もきっとゴッホの左耳には届かない。

 

去年の夏、ドーナツを食べすぎて死んだハリウッドのこどもの亡霊にとりつかれた。というのはつまらない冗談で、ほんとうに何かとても悪い憑き物でもついてるんじゃないかと思うくらい体が重くなって、どれくらい重いかって、それは朝起きてトイレに行くことが大変になるぐらいで、つまりわたしは鬱だった。ウツ、ウツ。言っても聞いても気分が滅入ってくる言葉だ。そうしてわたしは今までよりもずっと暗い場所に、それもじっとしているほかなくなって、太陽が昇るときも、太陽が沈むときも、だいたいはいつもぐったりと眠ってしまっていた。夫はたくさん励ましの言葉をかけてくれたけど、そのどれもが明るすぎて、わたしにはまぶしくて受け止めきれなかった。

 

スマホには百年のまばたきを。太陽には孤独な手のひらを。わたしはもう、ご飯を作って食べたり、洗濯物を干して畳んだり、部屋に舞っているほこりを掃除する気力がなくなっていた。それよりも、雨が降っている音をずっと聴き続けていたかった。わたしは、以前のわたしの姿に戻ることをあきらめかけていた。それは昼間に正社員として働くことだったり、毎日きちんと三食作ることだったり、いわゆる世間的に普通にちゃんとした人であることを、手放すということを意味していた。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、生きることを最優先するにはこの方法しか思いつかなかった。

 

今夜は月と星がいっそう輝いていて、それはもう、今までに見たことがないくらいの大きな輝きで、光と光と、それが合わさってさらに大きな光が空いっぱいに満ちていた。今なら耳を切り落とす気持ちがほんのすこしだけわかる、とわたしは思った。ときどき、耳だけじゃなくて体そのものをゴッホのいる世界に預けたいと思うこともある。だけど、わたしはまだわたしの体を手放したくなかった。これはほんとうに傲慢なのだけれど、なんとか体だけ保てれば、いつかゴッホの左耳に聴かせられるような曲を見つけられるんじゃないかと、根拠なく信じていたのだった。

 

大きな糸杉のふもとには捨てられたたくさんのおおきな筆が落ちている。自分も含めて、この世界ってゲームみたいにどんどんレベルが上がって良くなっていくものだと思っていた。その筆は一振りするとインクがずいぶん遠くまで飛んでいく。わたしはあたらしいわたしになれるのだろうか。ジャンプをしながら振ると明度が上がり、そのまま振ると暗い色になった。もう前の自分には戻れないような気がするけれど、それが生きていくことだとしたら。わたしはその筆を使ってできるだけたくさん文字を描いた。ひとつの夜を乗り越えるだけために描かれた文字たちは暗い場所を探して転々としながら、そうしてひとつの文章になっていった。