あえて今、詩のサイトをやるとしたら


たくさんの人に詩を読んでもらいたい、と考えている時間が増えた。自分の詩ではなく、僕がこれまでネット上で出会った素晴らしい詩/ポエムはもっと多くの人から称賛や注目を受けても良かったのではないかと思うのだ。それを踏まえて、このサイト「なにもないところ」で何かができるとして、何ができるかを検討してみると、凡人である僕の頭の中には「もっと神的にやばいフォントで」とか「作品に完璧に調和するような音楽がどこからともなく流れてきて最高にイカした空間が誕生する」とか誰しもが一度は思いつき、そしてそんなものは無いと確認され尽くした考えが去来する。


自分が凡人であり、そんな凡たる頭から特別なアイディアなんて生まれてはこないとたかを括ってしまうと、意外と核心に近い「経験」が浮かび上がってくる。僕がこれまでネットで読んできた詩/ポエムと呼ばれるものは、そこに行き交う人々の「あ、これいいね」みたいな素朴な賛辞や「何が面白いのかわからない」みたいな意地悪な皮肉の交差する場所であったからこそ、それに興味を持てたのではないか。つまり「掲示板」という形態は詩が読まれるうえで神的にやばいとは言えないまでも、詩にとってそこそこ幸せなあり方だったよな、と。


ある作品を読んで自分が抱いた感想というのはとても個人的なもので自分の内部にしか居場所のない心のおしゃべりみたいなものだと思う。仮にそれがほとんど誰の興味もひかないで「なんだかよくわかりませんでした」みたいな感想が散見されるだけの作品だったとして。それでも自分はその詩/ポエムにどうしようもなく惹かれているような気がする。気がするような気がする。そういうことってあるんじゃないかなって思う。


「なんだかみんなこの作品のことあまり注目してないっすね。ただ俺はこの作品とても好きです。あんまり言葉では言い表せないんですけど、『エビの背腸を抜いていたら、水溜りに星が映っていた』ってところ好きなんですよね。言葉にしたらただそれだけの事実でしかないんですけど、すごく寂しいじゃないですか。作品の中に詳しく書かれている訳ではないんですけど、なんか今にも壊れてしまいそうで。胸が締め付けられるような、まあわかんないんですけどね」


想像してみてほしい。あなたがなんとなく惹かれる作品に対して、こんなふうに別の誰かが自身の「惹かれる」を言葉にしていたとしたら。正直言って僕はあまり自分の感想に自信がない。自分の感想なんて風が吹けばふっと消えてしまうものなんじゃないかと感じている。でもこんなふうに自分の中にある「惹かれる」を別の誰かがかろうじて言葉にしてくれていたりすると、僕は自分の心が救われたような気持ちにさえなる。人間が3人以上集まるとそれは社会になる、って誰が言ったのか忘れたけど、今にも消えかけている蝋燭の火がぼわっとおが屑に燃え広がり確かな光になる瞬間は言葉では言い表せないくらい祝福に満ちている。


つまり、その確かな光になる瞬間をこのサイトで出来ないかなと考えている。実のところ僕は人と関わるのが苦手だし、ある時期までは一人で全て完結させることが僕のゴールだと思っていた。たくさん人が集まると色々とありますしね。ただそろそろ自分の中にある殻のようなものを捨てて、暗闇の中に手を伸ばさないといけないような気がしている。

6件のコメント

  1. 私も、サイト上で詩の多様な表現ができないかと考えていたところこちらのサイトに出会いました。

    なにもないからこそ見出せるものもあるだろうなと、サイト名から惹かれました。
    今後の更新を大変楽しみにしております。

  2. どうもありがとうございます〜〜

    慎ましやかにやりたい気持ちは揺るがないので月単位で応募して月2、3作品を取り上げるくらいなゆるい感じでできないかなーと思っています。

    ただそのためにはもうちょっと色々な人にこのサイトに目を通してもらわないとなんで、少しだけ頑張ろうかなと思います。

    どうもでした

  3. かんけーないが良い文章だね いやかんけーあるか 笑 次はアートと人生とギャラリーという文章を書くことをこれを読んで決めました

    1. おお、ぜひ書いてください。あんまり欲張りたくないけど、このサイトをもう少しだけ多くの人が見てくれたらちょっとだけ面白いことができるような気がする。 ありがとう。

  4. 心や思いの一瞬のきらめきを、言葉に託して置いていくところ。それをたまたま通りかかって読んだ人が、自分の中に生れた心や思いの一瞬のきらめきを、やはり言葉に託して残していくところ。静かに、その受け渡しが行われるところ。

    生き方に迷ったり、困惑したり、どうしていいかわからなくったときに、なんとなく手に取るのが詩集や詩のアンソロジーでした。そこで生まれる‟虹のような何か”は、私の中の空にだけかかって、誰も知らないまま消えていく。
    東日本大震災のあと、どうしていいのかわからなくなったときに、言葉が自由に出入りできる場所があるかもしれない、そう思ってネットの詩の投稿掲示板をのぞいてみました。いくつもの虹が生まれては消えていく、その痕跡が消えて行ってしまうのが淋しいような気がして、詩に小さな感想を残すようになりました。その時の詩との「再会」から、今の詩との関わりが始まっています。

    どんなに傷ついても、‟虹のような何か”を言葉に託すことができる、そう信じてもいい場所、やわらかな希望が残されている場所があればいいなあ、と思います。

    1. 青木さんお久しぶりです

      青木さんにお返しする言葉を考えていたらそれはそれで一つの批評に関する文章になる気がして、それはそれで後日このサイトに書こうかなと思います。

      最近やっとわかってきたことがあったんです。詩やポエムを読んで感想を書くような機会があると、その時僕はポジティブな言葉を使いたいと思い続けてきたんですね。なんでかと言うと、若い時に自分が誰かの詩を選んだり、比較したり、どこが優れていないかを指摘したり、そんなことをしなければならない役割を負ってしまったものだから、反動があったんだと思います。もっと楽しく詩を読みたいなって。実際その後しばらく「詩に優劣はない」みたいな極端にはしった批評をしていたものです。

      なんというか、褒める・貶す みたいな本当につまらない二項対立に囚われていたのだなぁ、とこのあいだ正岡子規を読んでいて気づいたんです。正岡子規なんかは人格否定もするし、悪口を言ったら止まらない人で、はっきり言って読んでて気持ち良いものではないんですが、書いてあることの面白さは今まで読んだどんな批評よりも面白くて何が一体どうしたんだって困惑もしました。。

      思うに、詩やポエム、あるいは俳句や和歌、ひいては芸術を「褒める・貶す」などと言う軸で捉えてしまう批評家の傲慢さを突きつけられたんだな、と。青木さんの言葉を借りるならば「託す」、それだけでいいんだなと。その後の責任なんていち批評家がとれるわけもなく取るべきでもない。ただ一人の生活を営む人間として、この世界のどこにいるかもわからない誰かに何かを託す、あるいは投げかける。それだけで十分な気がして、これまでの傲慢であった自分を恥じたのでした。

      そういった彼方からあらわれる虹のような微かなものを受け取って、ただ放つ。そういうシンプルな場所があればいいなと願い続けていますし、ここがそうなればいいなと少し思ったりもしています。

      どうもありがとうございました

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