言葉という生まれ出る何か:詩歌、小説と雑文

紀伊國屋という言葉の群生地に行った。かつては何でもかんでもお守りのように買い漁っていた頃とは別の心持ちで。言葉が群をなしてなだれ込む意識の中で溺れながら見た走馬灯。

詩歌如何

絵を描くように、言葉を書き留めると、詩になる。ところで最近僕は、鳥居さんという歌人の短歌を音にした。https://www.youtube.com/channel/UCa5rl8rxB2_Eb4fabGSGkyw

短歌と詩を比べれば、詩というものは自由で、お化けのように感じるかもしれない。日記だって報告書だって駅のアナウンスだってなんだって詩になってしまう危うさや放埒さが、詩にはある気がする。同時に詩というものの自由さを思えば、面白い。けれども、つまみ食いをして、途中で言葉を放ってしまったいくつもの記憶がある。最後まで読めるか。印象が刻まれるかどうか。かつてとある詩人に詩の書き方を尋ねたところ「削ることだ」とのたまった。なるほどなぁと思う。伝えるための作法がある。言葉の本性を表すために、削る。

小説如何

小説と呼ばれている言葉たちは、詩や短歌とは、少し違った生き方をしている。小説には、ファンタジーという形で象徴的に世の中の、何がしかのシステムを印象的に描き出すことで、人物を劇的に世界と関わらせる。「短編小説:なにもないところ」を思い出す。詩が写真だとすれば、小説はフィルムだろうか。とある現在流行中の小説は、ある種の生きづらさを感じる読者の共感を誘う架空のノンフィクションだった。きっとその物語は、誰かの癒しや、お守り、支えになるのだろう。私は一人ではないと。古来より続く多くの語り物の系譜である。

歌詞如何

民謡には、節がある。口上にも、節がある。この節という単位の計り知れなさが、詩に通じる気がした。口説き、というのは、現代でいう瓦版のようなもので、ニュースのようなもので、誰かが節をつけて読み上げていた文句のことだ。節を、唸りを、音を感じさせない語りが、小説の特徴、といえるだろうか。それにしても、世の中に出回っているボカロというものは、音楽というものは、身体化された言葉というものは、自然とやすやすと体に入り込むようだ。聞き手にとっての言葉の価値が、否応なしに上がる、ような気がする。僕は、言葉と同じくらい、誰かが生んだ音を聞いて、よいなぁと思うことがある。言葉への配慮、流れへの敬意、そして伝えたい、聞いてほしいという強い願いを感じるとき、僕は気持ちよさを感じる。

雑文如何

僕が今書いているような言葉を、雑文とでもいってしまうとしよう。僕はこう思ったのだという何かをただただ表現すると、雑になるかもしれない。本居宣長が「歌は整えられたもの」というようなことを言っていた。自然と整えることが当然の振る舞いになれば良いのだが。この文章にはその配慮がない(と僕は思う)。しかし、子供が描く絵を雑だという人がいるだろうか。願わくばこの雑文もある種の力強さを備えてはいないか。書きたいことを書く、という話は「目指せ不完全マスター!」でも書かれている。書くことが衝動で始まり、それが整うまで、時間がかかることもあるだろう。「二十歳の狂気」によると、約半世紀の年月を要することもあるようだ。気づきは、整いは、突然変異のように、営みを続けているうちに、ふとやってくるものなのかもしれない。言葉は、額縁に飾られるのではない。一方で、言葉は雑草の如く生まれ続ける有象無象でもある。

読み手は、別様な世界のあり方を味わって感慨に耽るようだ。いかに無造作に生まれた言葉だったとしても、それが別の人には面白いものだと感じられるかもしれない。誰か一人のためにあるのではない。花を摘む人もいれば、花を見るだけの人もいれば、匂いを嗅ぐ人もいる。見ない人もいる。それが雑草と言われようとも、ただ生まれ落ちる。花がなかったとしても、草木の何某かに感動したことが、僕にはある。それが、詩というものなのかなぁと、ふと思う。ただ何もないところの風景になって、誰かが見つけてくれたときに、見てもらえればいいのだろうか。誰もいないライブハウスで演奏をする悲惨さを感じることなく、ただそこにいてくれればいいと、思えるだろうか。人の言葉の営みを、人はどのように受け止めるのだろう。人は人と、どのように関わるのだろう。関われるのだろう。僕らは言葉を豊かに使えているだろうか。

生き物は、お互いに影響を与え合っていることがある。同じ空気を吸って、いつの間にか、何かしらの繋がりを持っていることがある。僕が昔音にした「子宮をとってしまいたい 1」の空気を、何がしかの息遣いを、この雑文のどこかに感じた僕がいる。言葉と関わるということは、極限、その言葉を食べるということのようだ。それはまた、どこかで生まれ落ちる。産み落とされた言葉が、どのように抱き上げられるのか。拾われて、食べられるのか、僕はそんなことを考えながら歩き回り、言葉が何事もなく暮らしているような、なにもないところをみつけたのだった。何事かのなさは、何かの始まりのような空気が、ここにはある。ふと、生きている間、作品が人の目に映らなかったゴッホの営みを、僕は思い出す。左耳は、きっと、自分で食べてしまったのだろう。どうやら、生まれ出る何かの喜べる姿は、他者との関係のうちに現れてくるもののようだ。

作った料理を誰も食べてくれないなら、自分で食べるしかない。誰かに見てもらって、嗅いでもらって、舌で触れてもらって、味覚細胞によって認知の複雑系の回路へと入り込まれ、ある種の旨みを引き出さなかったとしても、誰かに食べてもらえたというだけで、人に触れてもらえたというだけで、言葉は生まれ落ちた甲斐を感じるのではないかと、私は信じたい。言葉は、目から、口から、耳から、皮膚から、私たちに触れることができる。触れて、離れて、流れていく。吐き出されることも、丸呑みされてそっけなく排出されることもあるだろう。それでも、食べられることで、言葉は、その不思議な生命力によって、秩序をなしえる。けれども、言葉により、この世界の無秩序さが増大しているようにも思える。この世界には、得体の知れない何がしかの言葉で溢れかえっている。言葉は、美しさに属するものなのか、それとも心を乱すものなのか、知れたものではない。彼らのうちの幾らかは、草むらから、今にも僕に襲い掛かろうとしているかもしれないし、もしかしたら僕は、既に、触れられ、侵され、魂を齧られているのに気づいていないだけかもしれない。

音にする言葉を探しにやってきた紀伊國屋。雑草だらけの荒地のように思えてきた。こんな心ぢゃぁ仕方がない。めまいを覚えて去ろうという時、気づいたことがある。本の数が多くなったからかなぜかはわからないが、イラスト、美術関連の本がひっそりと奥まった紀伊國屋シアターの隣のスペースから姿を消し、他のジャンルの多くの本と一緒の蛍光灯でピカピカ明るいのっぺりとした大きなフロアに移動していた。

何某は、このように、赤裸々に語りましたとさ。

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