現代日本でさとるということ


歌手やラッパーは、歌うことやラップをすることの体験自体が好きなのであり、有名なレコードを残すことは二次的だ。むしろ、ファンが、歌ったりラップしたりして楽しむこと自体が、歌手やラッパーへの敬意として評価を与えることになる。歌い方を教えて、一緒に歌わせてくれて、ありがとうと言いたい。 

暴走族の人たちは、バイクで走ること自体が楽しいんだし、詩人は、心を同化させることを楽しむ。生きることを楽しむことも、仏道である。 

感情があるのは、楽しむためではないだろうか。何かに感動して心が動く。それをしていいときにはそうするべきだし、それが自然だ。山川草木は、存在すること自体を喜んでいる。私の心はそれらから生まれたものだ。 

現実はあるようで無い。だから、伊藤耕氏は、無条件の愛、無境界の愛、無制限の愛というのだ。愛のみは唯一の存在であり、それらは無の形容によって制限される。 

だが、制限するとは制限しないことである。だから、愛はもっともっと広がって強くなっていく。誰にも制御はできないし、制御するべきではない。 

孤独であるとは孤独でないことである。だから、仏は孤独になるな、孤独になるなというのだ。真理とはそのように概念や意味を、従えている。私はわかっているのかわかっていないのかわからないが、私は無我であるから、なにもわかっていないということがわかっているということなのである。 

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