武田地球さんの詩の「どこか」ってどこだ?


(この文章は僕がけいせいさん(@keisei1)と一緒にやっている夕ぐれステーションというラジオ番組で、詩人の武田地球さんをお迎えした回で話した内容を、できれば文章としても残しておきたいと思い、再構成したものです)


武田地球さんは2023年の1月に第一詩集『大阪のミャンマー』を上梓されており、その際もラジオでお話しする機会に恵まれたのだが、今回は詩誌『ギルド』の発刊に伴い再び出演していただくこととなった。番組フローをけいせいさんに決めていただき、僕は詩誌『ギルド』から1編詩を選んでそれについてなんやかんや言うという役割を仰せつかった。詩誌『ギルド』とは武田地球さん、ケイトウ夏子さん、中川達矢さん、渡辺八畳さんが参加されている同人誌であり、武田地球さんは6編の詩を寄稿されている。その6編を何回か読むうちにある単語が印象的に使われていることに気づいた。それが「どこか」という単語である。


数で言うと6編のうち3編、そのうち「マッサマンカレー」では3回使われているので合計で5回使われている。感覚的な話になって申し訳ないのだが、僕はこの「どこか」という言葉がギルドに寄せられた6編の詩を(全部が全部というわけではないが)、第一詩集である『大阪のミャンマー』とはまた別のものにしている要因なのではないか、と直感した。なんだよ直感かよ、と思われるかもしれないけれど、批評なんてだいたい直感から生まれる。裏付けはきちんとせねばなるまいし、勘違いだったら取り下げればいい。しばらく自分の直感と付き合ってみるのもいい。


【冷たい水を入れると/その時どこかで/いいことがあった】
【わたしとどこかは/いつも何かで繋がっている】
【異国の方を向いて声に出してみると/またどこかで/とてもいいことがあった】
(武田地球「マッサマンカレー」、『ギルド』より引用)


実際に地球さんに何かしら質問などをぶつける段になったら「どこかってどこですか?」と聞いてみることにしようと決めた。その答えがどんな答えであろうとも、自分の用意してきた答えが作者のものよりも説得力を持っていることが批評をする上での最低限だ。つまり言い方を変えると、武田地球さんの詩における「どこか」とはどこか?という問いに(自分なりに)答えることをこの少考のゴールとする。


1『大阪のミャンマー』に収録された詩に「どこか」が無いか探してみる

結論から話すと32編中(31編に英訳にしか収録されていない「Lost Chaild」を含んだ数)四編に「どこか」は使われている。そのうち2編は「どこか遠くへ翔べると信じて」(大阪のミャンマー)「どこか遠くの知らない街」(中央特快)などのように「どこか」という言葉それ自体が実在性を伴って使われている印象はない。他2編(「みうらくんときむらくん」「ワクチン」)も共通点や作者の思惑のようなものを見出すにはちょっと無理があるように思われる。それくらい「どこか」という言葉自体はありふれたものだし、恣意的に何かを見出そうとしすぎると目的が濁ってしまう。
なので第一詩集『大阪のミャンマー』には「マッサマンカレー」に見られるような、実在性を伴うような「どこか」という言葉を強く感じる使用例はないと考えた。


2 『大阪のミャンマー』ってなんだか別れの詩が多いと気が付く

誰が読んでもこれは別れの詩である、と言えるものを集めるとその数は9編に上る。「見方によってはこれもまた別れの詩と言えるかもしれない」のような観測者の主観に依存するものは除いてある。当然、詩において最も重要なファクターである「含み」を埒外に置くことに些か不粋さを感じるのだが、出発点が直感なのであまり恣意的に脱線するべきではないだろう。少し節操がない感じもするが列挙してみる。【ライチと花/セロリカレーとナン/中央特快/高崎発宇宙行き/ラーラーバイ/わたしの龍/ötousan/きいろ/未必の故意】である。前半に挙げた4編は離別の詩と思しきもの、後ろの5編は死別の詩と思しきものである。とはいえ繰り返しになってしまうが、詩において「書かれていること」だけにフォーカスすることにあまり意味はないのだが。


3 別れの詩には共通して「遠」と言う語彙が使われていることに気が付く

先ほど列挙した9編の詩のうち、6編の詩に「遠」の語彙が使用されている。ちなみに「永遠」などの熟語での使用は含んでいない。

【さようならなんかをオレンジ色の電車に押し込めて/出発するのを黙って見ていた/よし、これでみんな旅へ出たね/どこか遠くのしらない街で勝手にどうにでもなればいい】
(武田地球「中央特快」、『大阪のミャンマー』より引用)

【振り返るとわたしのうしろにはかみさまがいた/あんなに憎んだ人もいる/生き別れになった人もいる/愛したまま死んだ人もいる/(中略)/ラーラーバイ、わたしだけが人間だ/もうそれでよいのだと心に決めたら/空がどんどんと高くなっていった/鳥が遠くへ滑空して消えた】
(武田地球「ラーラーバイ」、『大阪のミャンマー』より引用)

試しに2編ほど引用した。前者の「中央特快」ではある意味で典型的な使われ方をしている。つまり「別れを遂げた相手が「遠く」へと行ってしまう」というニュアンスである。別れの詩である以上そのような意味で「遠」の語彙が多く使われるのは自然である。なのでそれは特別なことではないのではないか、と思われるかもしれない。ただそのような典型的な使用例は「中央特快」に限られる。例えば後者の「ラーラーバイ」では、直接的に相手が「遠く」へ行ってしまう、のようなニュアンスでは使用されていない。
「遠」が使用されている詩で尚且つ別れの詩と思しきものを列挙すると【ライチと花/セロリカレーとナン/中央特快/きいろ/未必の故意/ラーラーバイ】であるが、「中央特快」に見られるような「別れた相手が遠くへいってしまう」のような典型的な使用例は他にはない。

そうなると、今度は「ならば『遠』という語彙が『別れ』と紐づいているのではなく、偶然なのではないか」との疑問が当然出てくる。しかし『大阪のミャンマー』に収録された32編の詩のうち別れの詩と思しきもの9編を除いた23編のうち「遠」の語彙を使用しているのは3編だけなのだ。(【大阪のミャンマー/生きるためにパイを焼く/トウキョウのスカイツリー】)もっと細かいことを言うと「生きるためにパイを焼く」での「遠」の使用例は「きいろ」の使用例と重なる云々……本筋から逸れるのでここでは省略する。つまり使用頻度に偏りが生じており、尚且つそれが「別れた相手が遠くへいってしまった」のような「別れの詩」であるが故に増えた使用例ではないことがわかる。

4 そういえば武田地球さんの詩には地名がよく使われていた

タイトルに地名が入った詩を列挙してみると【大阪のミャンマー/チェルノブイリにチェが降った/カンボジアの果物係り/トウキョウのスカイツリー/新宿のシャンゼリゼでベトナムごっこをしたいだけ/ヤマダ電機キリバス店/高崎発宇宙行き】である。特に外国が多い。異国の地を詩に織り込むわけだからそれこそ「遠い」などの形容詞は使用されていてもおかしくはない。ただ、彼女の詩における異国の地は驚くほど身近に感じる。二つほど例を挙げて紹介したい。

【シャンゼリゼは新宿にあったように思うけれど/どこがどうシャンゼリゼだったかはわすれた/(中略)/ねえ、つぎはベトナムごっこをしよう、とあなたは言った/うれしかったからずっとわすれなかった/なのに、/ベトナムごっこをする日はこないし、そんな約束はわすれられた】
(武田地球「新宿のシャンゼリゼでベトナムごっこをしたいだけ」、『大阪のミャンマー』より引用)

【大画面テレビではキリバス/世界一早く朝日が昇る国/「ヤマダ電機キリバス店を作ろう」/社長も思わず快諾/無いものが無いからあっという間に完成/キリバス人は大歓迎/(中略)/空と海に囲まれた/ヤマダ電機キリバス店】
(武田地球「ヤマダ電機キリバス店」、『大阪のミャンマー』より引用)

いずれも固い頭を柔らかくしてくれるような楽しい詩である。それに加えて、これらの詩で「異国の地」は「まだ知らない遠い土地」などの役割ではなく、むしろ身近ですぐにでも歩いていけそうなくらい親近感のあるワードとして使われている。

5 仮説を立ててみた
  • 『大阪のミャンマー』には別れの詩が多い
  • その別れの詩には「遠」の語彙が(それ以外の詩と比べて)頻繁に使われる
  • 「遠」の使用例で「別れた相手が遠くへ行ってしまった」のような別れの詩であるが故の使用例はむしろ少ない
  • 「大阪のミャンマー」にはタイトルに異国の地名がよく使われる
  • 異国の地名はあまり「遠さ」を感じさせない

上記の点を踏まえて以下の仮説を立てる

武田地球さんの詩においては、「別れ」の持つ「心理的な隔たり」の質的な「遠さ」があまりにも深大なため、「場所」が持つ「物理的な隔たり」が相対的に小さいのではないか

武田地球さんの詩では、場所は軽く距離は重い。

6 どんぴしゃりなやつ、見つかる

実を言うと、前掲の仮説を出した時点でもうだいぶ満足していて、これ以上面白い何かを見つけられるとは思っていなかった。ただこれまで考えたことを踏まえて詩集をめくっていると、どんぴしゃりな詩が目に飛び込んできた。引用しよう。

【宇宙というものは人と人とが離れ離れになった時の/底なしの寂しさから生まれる】
【暗闇からは、必ず、/必ずうつくしい星が生まれたりする】
(武田地球「高崎発宇宙行き」、『大阪のミャンマー』より引用)

引用した二つの詩文に挟まって「できたてのひろい宇宙のまっくら闇を」とあるので、暗闇は宇宙の置き換えと捉えることができる。宇宙は別れによって生じる質的な遠さ(心理的な隔たり)の比喩である。そこからは「必ずうつくしい星が生まれ」るらしい。

7 結論

ここから書くことは最初の直感に立ち戻り、飛躍しながら書くことになる。最初に設定したゴールをもう一度思い出してもらおう。この少考のゴールは「マッサマンカレー」で多用される「どこか」がどこなのかを解き明かすことだった。ここまで書いてきたことを踏まえて、尚且つ最後らしく多少の飛躍も交えて書くならばこうなる

  • 「どこか」とは「遠さ」という底なしの寂しさに生まれるうつくしい星のことである
  • 「うつくしい星」を言い換えるならば、離れ離れになった相手との思い出の地であり、約束の地であり、再会の地であろう

【冷たい水を入れると/その時どこかで/いいことがあった】
【わたしとどこかは/いつも何かで繋がっている】
【異国の方を向いて声に出してみると/またどこかで/とてもいいことがあった】
(武田地球「マッサマンカレー」、『ギルド』より再引用)

武田地球さんの神学では「わたしとどこかは、いつも何かで繋がって」いる。満たされるのを待っているコップに冷たい水を入れたり、美味しいものを食べ終え、感謝を伝えたりすることで、「遠さ」という深い隔たりに生じる「どこか」にささやかな干渉を起こすことができる。そんなことは神さまだって知っている。

7件のコメント

  1. >武田地球さんの詩においては、「別れ」の持つ「心理的な隔たり」の質的な「遠さ」があまりにも深大なため、「場所」が持つ「物理的な隔たり」が相対的に小さいのではないか

    >「どこか」とは「遠さ」という底なしの寂しさに生まれるうつくしい星のことである
    >「うつくしい星」を言い換えるならば、離れ離れになった相手との思い出の地であり、約束の地であり、再会の地であろう

    どこか、が作られ続け、別れの数だけ星が生まれる。
    それを直感させるのは、「かみさま」と地球さんが呼んでいるもの。
    と僕は思います。実は、地球さんの詩集を読んでいないので、やや言うのがはばかられるものの、
    星が土地であるという夕狩さんの考えとは少し違い、僕は、星が人であると思っています。
    「どこか」が人の存在する場であるならば、その場というのは大きさを持たず、
    場というのは伝播していくもの、変わり続けるものであるとも思います。
    その場というのは、どんな属性や性質を持っているのか、ということは、難しい話です。
    そんなことを思いました。

    1. どうもこんにちはお読みくださりありがとうございます。
      最近コメントの通知?がなんだかうまく行っていないようで、見逃すことが多々ですがご容赦ください。
      地球さんの詩集、今はsold outのようですね、もしかして再版もあるかもしれないのでぜひしろねこ社さんのHPで「再入荷通知を希望する」を押しましょう。回し者ではありません

      というのも、こういう文章を書くのってもっと詩集に売れて欲しいからの一心でして
      この文章を読んだことをきっかけにまた武田地球さんの詩集を手に取る人が増えればいいなあと心から願っています。

      1. 地球ラブしちゃったんですね。詩集は、興味はあります。もう少し考えてみます。

        1. ラブだかどうだかは知らないですが、黒髪さんが「読んでいない作品についてあれこれ言ってしまう」というもっとも恥ずかしい状況を脱するためにできることは一つです。ギルドはまだ売ってるみたいですよ!

          1. 情報ありがとうございます。ギルド、わざわざ注文しましたよ!ありがとうございます。

  2. 心から感謝します。

    さいごの一文は胸を撃ち抜かれました。
    すこし悔しいくらいですが、清々しい敗北だとおもえます。

    そう言えばおもいだしたのですが、ガガリン団地という詩を書いたときに夕狩さんに言われたことがうれしすぎて、ガガリン団地をどこかに公開することが未だに出来ていません。
    勿体ないからです。

    わたしにとって芦野夕狩さんとはそんな風にかんじることのできる、非常に偉大な存在です。
    これからも夕狩さんのご活躍を願っています。
    わたしも負けずに、またがんばります。

    1. すみませんまたコメント反映がおかしくなっていて気づきませんでした。お許しを。

      アニメとか漫画(同人含む)界隈を見ていてすごく羨ましく思う点が「読み専」が多いというところなんですね。SNSとかでも〜〜さんの描く絵はどうたらこうたら、オタク語りが随所に見られる気がして。それで思うのが詩ももっとオタク語りがあっていいと思うんですよね。

      そういう意味で偉大な存在だなんて言ってくださるのはとても光栄でありがたい話なんだけど、実のところ矮小な存在になるべきなんじゃないかなって思っています。あ、僕自身は自分のこと便所コオロギくらいのモンだと思ってますけどね。
      是非、地球さんもオタク語りしましょう。

      ガガリン団地、すごいいい作品だと思うので金沢詩人賞とかありなのでは、とふと思いました。未公開作品に限るらしいので、「youtubeで朗読した」がそれを満たすのかちょっと不明瞭ではありますが。。

      とにかくこの度はこのような作品論を書かせてくださっていたく感謝しております。ますますのご健勝をお祈りいたしておりますので、是非またオタク語りのネタを提供なさってください。それでは

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