カレーを食べるというとてもかなしい行為について


最近はたまにスパイスカレーなどを作っている。玉ねぎ、生姜、ニンニクをみじん切りにするところから、それらを炒め飴色というよりも、もっと焦茶色というか長年手入れされていない排水管にこびり付いた錆の色になるまで炒めるところから始まる。それが終わったら今度はトマトをざく切りにしたものを入れる。トマトの赤色が錆色に溶けていくまで、吐き出された水気が水蒸気になって消えていくまで、しっかりと強火で。木べらで、トマトを潰すようにして、やがてそれらが全体として、鍋の上で踊る一個の、ペースト状の生命体のようになるまで炒める。


(あらゆる人間は「語り」によってこの世界に存在し、「語り」を持たないものはない。私たちは日々、目覚ましを止め、目を擦り、カーテンを開け、歯を磨き、コップ一杯の水ないしお茶を飲み干し──いや、目は本当に擦っただろうか。思い返してみても、目を擦ったかどうか定かでは無い。けれどあなたは今この文章を読んで、(歯を磨いたかどうかは諸説あるにしても)目を擦ったことに疑問を抱くことはなかっただろうと思う。それはあなたがそのような「語り」によって存在しているからである。)


スパイスはクミン、ターメリック、コリアンダーの基本の3種だけ。旨く作れるようになったらもっと増やしてみてもいいかな、と今は考えている。最初から作り方を何から何まで変えてしまうと食べて美味しかったとき、何が奏功したのか判別しづらくなる。ここまでで基本のルゥは完成する。食べない分は冷凍で保存すれば1ヶ月ほどは保つと思われる。料理の場合1食分や2食分の分量を細かく測って作る方がかえって難しいので5、6食分のルゥを作って冷凍保存する方法をお勧めしたい。僕はジップロックにそのまま今日食べない分を注ぎ入れてそのまま凍らせている。


(几帳面というよりも、細かいことに気がつき過ぎて困ってしまうこともあるかな。自分ではそんなにお人好しなつもりはないのにいつの間にか人から色んな頼まれごとをされていることが多い。みんなでお酒を飲んだり、はしゃいでみたり、大きな声を出したりするのはあまり得意ではないけど、心のどこかでそんなふうに自分を解放してしまえる人のことを羨ましくも思っている。自分に芯がないとは思わないけど、かといって強烈な個性があるとも思っていない──これは存在しない、架空の人物の語り。私の世代では「ネクラ」「A型」みたいな言い方をしていたかもしれない。今はどういう言い方をするのかわからない。陰キャ? HSP? とにかく私たちが「語り」によって存在する以上、「語り」は私たちに先立つ。私たちはこの世界にすでに存在する「語り」を使って自分自身を認識する。)


基本のルゥができたら一口大に切った鳥もも肉、水、チリペッパーを加え鍋で煮込んでいく。いろいろレシピなどあたってみたりもしたのだが、水の量は完成した時の分量の倍くらい入れて強火で沸騰させながら量を調整していくのが良いのではないか。最初に使った油の量にもよるが、ジャストの水量で蓋をして弱火で煮込むと油が浮いてしまい、美味しくない。強火で沸騰させることによって油が水分と混ざり合って(アーリオオーリオ的な)完全なコクが生まれると言うのが私の持論なのだが、最初に使った油の量が少ないのであれば弱火でコトコトでも美味しいカレーになる。そっちで作る時は水の半分を牛乳とかヨーグルトやココナッツミルクにかえるとアクセントが出ていいかもしれない。


(カレーを食べるという行為は、とてもかなしい行為に分類される。食器に当たるスプーンの音がほの暗い室内に反響し、誰にキャッチされることもなく、やがてどこかに墜落する。「語り」によって私たちは成立するが、逆説的に、私たちは「語り」を失う瞬間を知っている。私たちは小さい頃は親に、友達に、先生に、やがて、恋人に、競争相手に、上司に、同僚に、後輩に、先輩に、彼らの「語り」に、私たちの「語り」が広い意味で伴奏するように、私たち自身を成立させてきた。彼らもまた私たちの存在によって、彼らの「語り」を変質させてきただろう。私たちは双方向的に存在している。そういう意味において、私たちは誰一人として孤独ではありえず、世界が終わってしまうその日まで私たち一人ひとりの個が偶発的に変質させた「語り」は形を変えながら──たとえ個々の肉体は滅んだとしても──生き延び続けるだろう。けれど一方で、誰もいない部屋、薄暗いあかり、雨の日のどこか黴臭く重たい空間でカレーを食べる行為は、僕から語りを奪う。僕はどこか別のところからビニール袋に泥を詰めたくらいの粗末な人形がせっせと赤茶色の液体をのせたスプーンを口に運んでいるのを目撃する。あれは誰だろうか。一体何をしているのだろうか。どうしてあんなにも、)


広く誤解されているが、人は死なない。人は死んだりなどしない。冷蔵庫に貼り付く古い磁石のように、人は死なない。

3件のコメント

  1. こんにちは、ukrさん。いつも、楽しく読ませていただいています。今回の作品は、
    料理の描写が実に的確で、参考になります。ukrさんの文章は、比喩がやや強引すぎるところが
    難だと思っていたのですが、この文章では、一つ関門を突破して、自由な語りが見られて、
    気持ちよく読めました。

  2. お読みくださりどうもありがとうございます。
    最近は基本の鶏肉のカレーだけではなく、ポークビンダルーなるカレーにも挑戦しています、

  3. 投稿ありがとうございます。

    >私たちは小さい頃は親に、友達に、先生に、やがて、恋人に、競争相手に、上司に、同僚に、後輩に、先輩に、彼らの「語り」に、私たちの「語り」が広い意味で伴奏するように、私たち自身を成立させてきた。

    >誰もいない部屋、薄暗いあかり、雨の日のどこか黴臭く重たい空間でカレーを食べる行為は、僕から語りを奪う。

    暑い日に氷を入れたコップに注がれた水がゴクゴクと音を立てる喉を通り過ぎて身体に染み渡るような喉越しでした。美味しくいただきました。

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