本のはなし 川上未映子『ヘブン』


これから読書録なるものをここに書きますが、それは誰かに読まれるための文章ではなく、ただ自分に向けて書かれた文章なので独りよがりなレトリックや、論理構造のはっきりしない逡巡などがみられるでしょう。どうか寛大な気持ちで見過ごしてください。当然ネタバレもありますのでこの本を読まれたことがない方は一応気をつけてください。もし同じ本を読んで、僕の感想に対して何か言いたことがあったら何年越しでも構いませんので、気軽にコメントでも残していってください。










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(引用元は全て、川上未映子『ヘブン』講談社より 以下引用にはページ数のみ明記)
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『ヘブン』という題名から予見される通り、この小説は人類史上最も多くの人を欺いたであろう虚構についての話だった。その虚構を説明するのに一枚の絵で事足りることを考えると、人間というものはあまり変わっていないのだな、と考えさせられる。

ラファエロ「アテナイの学堂」


有名なこの絵の中央に描かれた二人の人物──プラトンとアリストテレス──の手の形に注目すると、プラトンは上を指差し、アリストテレスは今立っているこの大地を手のひら全体を使って示している。プラトンはこの世界はある種の影に過ぎず、本当の世界が天上にあることを示唆し、アリストテレスは、この大地、この現実こそが全て、と論駁していると一般的に言われている。この対立構造は世界中至る所に存在する普遍的なものだ。


多くの場合プラトンの役割は宗教によって担われる。この世界には真に善なるものが存在し、人の善行、悪行、全てお見通しで、審判の日に全てが明らかになるだろう。或いは、この世には輪廻転生の理があり、善行を積んだものは次の生を受けるときにより良いものに生まれ変わる、など。宗教というと難しく、縁遠く感じるかもしれないが、「国民国家」などの規範を共有する組織もプラトン的なものとして考えることができる。「日本人たるもの」というとき、その裏側には「真に善なるもの」と似た機構が働いている。アリストテレスの説明はもっとわかりやすい。「そんなものはない。寝言を言うな。この世界は一つしかない、だからこの世界で幸せになるしかない」と。


つまり、この小説においてコジマはプラトンであり、百瀬はアリストテレスである。それぞれの発言を引用する。

コジマのセリフ

「……生きてるあいだに色々なことの意味がわかることもあるだろうし、……死んでから、ああこうだったんだなって、わかることもあると思うの。……それに、いつなのかってことはあまり重要じゃなくて、大事なのは、こんなふうな苦しみや悲しみにはかならず意味があるってことなのよ」p93

「(前略)これを耐えたさきにはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごとが待ってるのよ。そう思わない?」p94

百瀬のセリフ

「君の苛めに関することだけじゃなくて、たまたまじゃないことなんてこの世界にあるか? ないと思うよ? もちろんあとから理由はいくらでも見つけることはできるし、説明することだってできる。でもことのはじまりはなんだって、いつだって、たまたまでしかないよ。(後略)」p159

「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方ない」p177

そして僕にとってこの小説がどうにもややこしいものになっている理由が、この二人と主人公の関係性にある。僕が何かを考えるときのフレームが完全に「アリストテレス型」であるのにも関わらず、この小説においてコジマは主人公にとってほとんど救世主であり、百瀬はいじめの主犯格であるということ。結構主人公に感情移入してしまうたちなので、どうにも居心地が悪いような気がずっとしていた。もっと端的に言うと大切な友人であり、恩人でもあるコジマの考え方がひどく歪で、主人公をかえって苦しめているように思えた。いや、さすがに「美しい弱さ(p190)」は怖いよ。救世主Tier表があったらあんたキリストやブッダと並んでTier1だよ。


だからざっくりこの物語を自分なりに解釈すると次のような通り一遍の解釈がまず浮かび上がる。
この小説の一番のキーパーソンはコジマでも百瀬でもなく主人公の継母である。プラトンだ、アリストテレスだ、イデアリズムだ、リアリズムだ、そんなものは全部ただの言葉だ。この物語で継母が担っているのはそういう類の言葉ではない何かだ。

「でもね」と母さんは僕の顔を見て言った。
「手術しなさい」
 僕は母さんの顔を見た。
「自分で決めることだけど、手術しなさいって、言いたい」そういうと母さんは笑った。
「目なんて、ただの目だよ。そんなことで大事なものが失われたり損なわれたりなんてしないわよ。残るものはなにしたって残るし、残らないものはなにしたって残らないんだから」(p242)

この発言をした時に、主人公の継母はある大きな決断をしたんだと思う。そう、決断。それは言葉の上で行われる哲学論議や、自分自身から見た世界の捉え方や、慰めや、諦め、とは違う。それは勇気や覚悟といった心の動きと近しいものだと思う。それは言葉ではなく、行為であり、自分以外の誰か”他者”に投げかける非自己完結なものである。(僕は「手術しなさい」で何かが初めて報われたような気がして泣いた、それは「君の目が好き」と言ったコジマの言葉とは根本的に違うものだと思ったから。あと、「手術しなさい」って断言した後に「って言いたい」って言い直すのとてもいいよね)


ここまで書いたことだけでそれなりに僕には納得のいく解釈ではあるのだけど、それでは作者の川上未映子が最後にしのばせた、あまりにうつくしい矛盾に報いることができていない気がする。ので、ちょっと補足。

しかしそれはただの美しさだった。誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった。p248

手術をして初めて二つの目で捉えた世界の美しさに関する息を飲むような描写に関しては、それだけで一読の価値があったと言っても過言ではないと思っている。けれどそれに続くこの描写のかなしさは、僕のようにコジマをこの物語の添え物として、継母の引き立て役として消化してしまった人間にとても深く突き刺さる。上のような解釈をするとき、人は往々にしてその人物をラベリングし、パターン化し、非人間化してしまう。コジマは嬉しいことがあると「うれぱみん」と笑う、たかだか中学生の女の子である。この小説の最後にしのばされたこの文言を読んだうえで、もう一度最初の方だけでいいから、コジマとの文通や、やり取りを読み返してみるのをお勧めする。

2件のコメント

  1. 投稿ありがとうございます。私はヘブンを読んでいないのですが。。。

    >勇気や覚悟といった心の動きと近しいものだと思う。それは言葉ではなく、行為であり、自分以外の誰か”他者”に投げかける非自己完結なものである。

    行為としての言葉、行為と等価の言葉、呪術的な何かが乗っかった言葉。そんな言葉を私も使えたらと思いました。認識のための論じるための言葉だけの虚しさ、効力のなさのようなものを感じています。

    ヘブン、読んでみようかな、と心が動揺する文字列も、呪術的なのかも知れません(私には効果がありました)。

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