この世界は、それでも生きようと挑み続けることに値するものなのか。より良く生きたいと願い、少しでもマシな人間になろうとすることを諦めないことは出来るのか。それらの検証が終わらないうち、途中でやめてしまってもいいのか。
日々襲われる怒り悲しみ苦しみに、折れて、折れた後にも止まらない時間の中、どう息を継いでゆけばいいのか。まだ続けられるのか。そんな時、目に映るものや胸の内を言葉にすることが、この酷い現実と私の間に、薄い、薄い膜を張ってくれる。それはフィクションよりもそばにあるもの。湯船のなか仰向けに潜って、瞳が水面から出る直前、天井をはっきりと目視出来るかどうかの境界。あの、薄い、膜。心音まで聴こえて来るかのような静けさ。その膜を張る。言葉に変換していく。
誰にも読まれなくても、詩を書いていくのだと思う。私にはコンクールなどで技術を競う必要がない。技術を高めたり有名になることを目指しているのではなく、これはきっと検証だから。それに私にとっては、生きていること自体が批評に曝されることじゃないかと思われるから、これ以上音を足す必要がない。
どれか一つしか選べないのなら、人様に作品をご覧いただける幸運と幸せを捧げてもいい。一つしか選べないのなら、これからも私は、書くことを通した検証を選びたい。検証はまだ済んでいないと、生を諦められない命を生きたい。その過程で死んでいくことを選びたい。
名も知られぬ山に登って、帰り道には明日のお弁当のおかずを買って(二〇二四年八月十七日、スーパーに米がないと嘆きながら)、翌朝には弁当を用意して会社へ行く。次の休みにはまた山へ出て行く為に。あるいはこの穴をさらに深く掘り進める為に。
格好いいことを言っていたって、さっき母親から電話があって、今は酷く気分が沈んでいる。俺が電話に出ないもんだから、他の家族にまで連絡を寄越していたことを知って、そしたらもう俺が折り返さないわけにはいかなかった。そういうことだよなと思って運命に降参した。
子どもの頃から変わらない、あの人への怒り悲しみその愚痴を聞いているうち、足もとがグラグラと揺れて来て、目眩がして来るような感じがする。ずっと我慢していたのに、イラついて冷たい言葉をぶつければ、小さな動揺や声のトーンその変化、それにまた腹を立ててしまう。投げやりな言葉と優しさを取り繕った言葉が交互になって、自分がバラバラになる。処刑人として私情を捨てて万人に冷静に務めを果たすべきだという声と、ついに晴らす時だという声がする。俺は何も選べず、小さな反抗と自己嫌悪とを土産にこの文章を書いている。しかし諦めるわけにはいかないと知っている。これは検証なのだから。
この世界は
それでも生きようと挑み続けることに
値するものなのか
その声を聴いて、やっぱりそれでも「Yes」と言いたくて、いや、これは「No」と言わない為の先の見えないマラソンのようなものかも知れず、最期の瞬間、ギリギリ「Yes」にねじ込みたくて、歯を食いしばって
これを
書いている
「生きていくのは大変だね」
詩友が言う。
(不思議だな。ちょうど俺もそう思っていたところ)
「そうだね。生きていくのは、本当に大変だね」
「またあした」
「うん、また明日」
投稿ありがとうございます。
> どれか一つしか選べないのなら、人様に作品をご覧いただける幸運と幸せを捧げてもいい。一つしか選べないのなら、これからも私は、書くことを通した検証を選びたい。
>ギリギリ「Yes」にねじ込みたくて、歯を食いしばって
好きです。zbmさんの「生活」にしても、kwnさんのこの文にしても、重みを重みとして感じられる文が僕は好きなのかもしれないと思いました。振り返って、私は肝心なことを自分の文に書いていないのではないかと思いました。
ngkgさんはじめまして。コメントをくださり、ありがとうございます。
>重みを重みとして感じられる文
この箇所、ありがたく拝読しました。ありがとうございます。
むかし、「臭い(におい)」という文字の力について感じ入ることがありました。その文字はただその表記だけで不快感を強烈に連想させる力があると知りました。すごいことだと思いました。その後、そのような力を言葉に与える詩人が多くいることを知りました。以降、自身もそのようなことが出来ればと思っていました。今回そのようにおっしゃっていただき、嬉しいです。ありがとうございます。zbmさん、ngkgさんの作品を拝読出来たらと思います。今後ともよろしくお願いします。