親知らずを抜く

先日、親知らずを抜いた。歯茎に埋まって少しだけ顔を出していた親知らずが、40を過ぎてなぜか生え始めてきて(今さら?)、すこし痛みがあったので歯医者に行ったところ、これはいずれ悪さをするからいつか抜いたほうが良いね、と先生に言われ、いつかっていつなんだ、と思い立ったが吉日、歯なんていつだって抜きたくないのだから、早めに抜いてしまおうと思って抜いたのが先日。

麻酔をぶすぶす何本か歯茎に打たれ、ヨイショーっと親知らずが抜けたはいいものの、そこからが大変だった。血が出ない。出血しないと傷口がふさがれず、骨がむき出しになって大変なことになるらしい。(骨がむきだしって?)専門的なことはわからないけど、先生が歯ぐきの穴を血を出すためにやたらとガリガリ掘っていることがわかる。いくら麻酔をしていても感じるものは感じるので、これだから歯を抜くなんてことは嫌だ。

先生が色々やってくれていた意味がわかったのは抜歯3日後だった。ご飯を食べると、歯を抜いた場所がそこそこ痛い。いや、そこそこというか、食事が美味しくない程度に痛い。抜いた直後痛みがあるのは覚悟していた。そのうち痛みは和らぐんだろうな、なんて思っていたら、3日後に突然ジワ~ンと痛みが走る。鏡で口のなかを見ると、奥底が知れぬ真っ黒な穴が開いていた。え、この奥に、まさか、骨がむきだしに?

結論から言うと、穴はふさがった。抜歯から10日経ってようやく痛みが治まり、歯を失った一番奥の部分は、歯ぐきがモリモリと増殖したおかげで顎の骨は覆われ、そこは最初から何もなかったかのように、なめらかなピンク色の歯ぐきが広がっている。そのとき、自分自身をあらためて生き物なんだなと思ったし(今さら?)、自分の意志とは関係のないところで、細胞の増殖が行われていることに少し感動もした。

穴はふさがるものだ。そこにあったものが、まるで初めからなかったかのように。トンネルも管理しないと、ひび割れて土がこぼれてくるだろうし、異動した人のポジションも別の人で埋まり、問題なく会社は回っていく。そういえば、防空壕で戦火を凌いでいた人たちは、今どこでどうしているのだろうか。ヒロシマやナガサキの日も、なんてことない平凡な一日として過ぎていく。今年の八月六日は日本の株価が大暴落して、わたしは株価の行方ばかり気にしていた。わたしは、あるいはわたしたちは、食べて寝て仕事をして、それだけで日々がいっぱいいっぱいになる。平和を願う、だなんて、具体的に誰に対して何を思えばいいのか、あまりに話が大きすぎて、願う気持ち自体が空回りしているような気もしてしまう。それは、今この瞬間も、ウクライナやガザ地区では戦争なんてものが起こっていて、自分自身の無力さを感じているからこそなのだろうけれど。それでも、そこにない、無くなってしまったものを忘れずにいるなんて無理な話なのだから、こうやって文章を書きながら、その穴にいた人々のことや、そこにあったもののことを思いながら、親知らずを抜いたなんていうどうでもいいことで文章を書く生活に対して感謝をしたりする、そんな日々を送っていく。

2件のコメント

  1. 投稿ありがとうございました。

    この文章(僕は文字列と表現しています)を読みながら、zbmさんの「暑いということ」「生活」の時に私が感じたこと(うまみ)が感じられなかったのはどうしてなのだろうか、想像しました。私(読み手)の文脈に偶然重なる文字列が、響くのかなと感じました。

    コメントがしにくい文字列はどこか旨味を感じられなかった、どう反応していいかわからないような。読めなかった。咀嚼できなかったか。読書会の時、ukariさんに「うまみを感じない」私を告白したことを思い出します。文字列を書く人にとって読者がどんな立ち位置、意味、役割、機能をになっているのかなぁ。と徒然に思い耽りながら、試みに、なにもないところにまた文字列を流し込もうとする私がいます。書きながら、なにもないところの皆さんの文字列を読みながら、感じ続けたいと思いました。書き手と読み手の波長を合わせるチューナー、変調機のような役割を、文字列に持たせることなんだろうかと、想像しています。

    1. ngkgさん、こんばんは。
      すぐにコメントに気がつかず、すみませんでした。
      うまみを感じるという感覚は新鮮ですね。わたしのなかで、うまみはハッピーターンの粉みたいなイメージです。
      生活もこの文章もなんですけど、いかんせん未熟者の書く文章なので、読み手を困らせてしまうことが多いかと思います。それでも、こうして読んでくださること感謝しております。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

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