寂しがり屋のツァラトゥストラへ

ツァラトゥストラ、君は語りはしたが、人々と暮らすことをしなかった。

君は語りはしたが、合気道はしなかった。叫びはしたが、対峙しなかった。

この文字列も語りじゃないか、気休めじゃないか。と君は言うだろう。

その通りだ。僕は気休めにこの手紙を書いている。気休めに読みたまえ。

僕の言葉が君に伝わるように、僕が使う言葉の文脈を、比喩を説明しておこう。

超人:末人=人:ロボット=character : personality=素顔:仮面

僕は君を察する。君にとって世界は狂っていた。神経症患者に満たされていた。だから君は君の人間性を失わないように、君の神経がそれ以上狂わないように、山に入ったのだろう。そして寂しくなって、山を降りたのだろう。誰か、わかってくれと。私とともに、人間しないかと。僕は君を想う。僕も漠然と何か大事なものを失いそうで、ロボットを避けてきた。嫌悪した。けれども、虚しさを感じている。僕は山に籠って腐ってしまった。そこで僕は君に手紙を書こうと思ったのだ。今でも神は健在だ。

人はどこにいる?

諦めてきた。

どこにもいないと諦めてきた。

けれどもそうでもないらしい。人はいるらしいのだよ。ロボットの中に隠れているらしいのだよ。君が山を降りたのは、人とは何かをロボットに伝えるためであったらしいがね。彼らは論じられてもわからないし、ロボットに囲まれて暮らしているのに、どうして人になれるのか、わからないのだよ。キリストが奇跡を起こして救った(とされている)ように、助かりたい人が大勢いたに違いない。けれども、君は彼らを助けなかった。論じただけだった。現世利益を与えなかった。弟子も君から離れた(君の弟子はロボットだったか、人だったか、君にわかるか?)。神経を蝕む仮面を外すには、君は叫ばずに立ち合わなければならなかったんじゃないか?人である喜びを君は伝えたか?仮面に飲み込まれて、仮面舞踏会で息苦しそうに踊っている姿を僕は想像する。ロボットの仮面の下に人の顔があって、ロボットとして暮らさざるを得ない会社やら何やらから離れた場所で仮面を脱ぎたい息をしたい人がいると想像してみたまえ。ロボットにならなくては暮らしを営めない人がいると、想像してみたまえ。君が人間を志すなら、仮面舞踏会に繰り出して彼らと出会うがいい。ロボットを装って、一緒に踊るがいい。立ち合うといい。合気道だ。ロボットのように振る舞うこと。ひと踊りした後に、何かのきっかけでバルコニーに連れ立って、仮面を脱いで、立ち合うといい。人である君の姿を見せるといい。(何人かは、怖くなって立ち去るかしらん)

君は仮面をつけて踊り続けることができるか。

君は仮面を脱いだ自分の素顔が人であると言えるか。

君は多くの本を著してきた。その論が若者を鼓舞したこともあった。けれどもそれは論であって、暮らしではない。論じることが人の営みか?君の姿は、人として、大勢の人にとって、人らしい姿だったか?君が超人という文字列で表した人の姿は何だ?君は山の中で暮らしていたじゃないか。ああ、ツァラトゥストラ。僕は君の神経質さが、君の示した覚悟の姿が、ロボットの暮らしに溶け込む人が望む人の姿だったとは僕は思わない。君はその神経質さが故に、人の姿を見定めようとした。山に入ったのは、君が人であり続けようとする努力だったのだと僕は想像する。君はロボットになってみて、ロボットのフリをして人の中に入って、共に生きることができなかった。僕はただその事実を、君の限りある人間性を有効に使い切った生き方を誇らしく思う。だから僕は、君ができなかったことを、君の人間への望みを、君とは別の死に方をして試みよう。小さな、脆弱な、一人の人間として、死を全うしよう。できるなら、祝福される死を。記憶される死を(それは君が偶然にも成し遂げたことでもある)。

君はもう寂しくて死んでしまっただろうけれど、この手紙を送ろう。気休めに読みたまえ。僕も気休めに、深夜テンションのラブレターのように書いている。君も僕も、書くことで、人であり続けようと試みているようだ。

<!ー

詩のような何かとは、乾きに飢えた人間性に一滴の水を垂らすようなものだろうか。

詩のような何かとは、自分が人であることを忘れぬための儀式なのだろうか。

人間性が詩のような何かをつくるとしたら、僕の文字列の限界は僕の人間性である。

腕は後ろに回らない。

仮面は頭の後ろにつけておいて、腕は大事なことに使うといい。

ー>

追伸

君は釈迦を知っているか。そっちで君が出会ったなら、きっと君に一杯の牛乳を差し出してくれるんじゃないか。君は牛乳アレルギーだったかしらん。

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