現在アメリカで何が崩壊しているか
僕は経済学の素人なんですが、少し思い立ったことがあったので書いてみたいと思います。
現在アメリカは自由貿易と自由民主主義的価値観を脱ぎ捨てる予兆さえみえはじめ、足元では株価が大きく下落しています。もちろん、株価の暴落などというものは過去何度も起きてきたことです。しかし今回の暴落は、通貨安・債券安を伴いながら起きており、いわゆる「スタグフレーション」の様相を呈しています。この事態に直面して僕が考えたのは、「これはリーマンショックのような信用危機なのだろうか?」という問いでした。
リーマンショックやコロナショックの根底にあったのは「信用の収縮」です。ここでいう信用とは、将来の価値を「ある」と仮定して成立する仮構の価値です。たとえば、ある企業が将来の収益を期待されて銀行から融資を受けることもその一つでしょう。しかし「ある」とされたものが「ない」と見なされたとき、バランスシートは毀損され、評価損や特損が発生します。それによって銀行は融資を引き上げ、資産価格は下落し、マージンコールが連鎖的に発生します。こうして売りが売りを呼ぶ局面に入る──これがリセッションの基本的な構図です。
ただ、そうしたリセッションにおいては通常、物価は下がり(ディスインフレまたはデフレ)、中央銀行は金利を引き下げるため、債券価格は上がります。つまりリセッションとは、レバレッジの過剰を修正するための、ある意味「自浄作用」として機能する局面です。けれども、今回アメリカで起きていることは、本当にそのような信用の収縮でしょうか? 少し違和感があるのです。
ここで僕が考えたのは、もしかすると「もう一つの信用の収縮」が起きているのではないか、ということです。それは、「通貨そのものの信用」の収縮です。
我々は日常、通貨に価値が「ある」と仮定して生活しています。たとえば、僕が砂浜で拾った珍しい貝殻を持ってロレックスの店舗に行っても、店員は時計を渡してはくれないでしょう。それは貝殻に「交換価値」がないからです。逆に言えば、我々が使っている通貨に価値があるとされているのは、それが「信じられている」からでしかありません。
この観点から見ると、現在のアメリカでは、「通貨そのものの信用」、つまり根源的な価値の仮定が揺らいでいる可能性がある。これはもはやリーマン型の信用収縮ではありません。より深い、土台の崩壊です。
【補足:マネタリーベースの推移と貨幣の希釈】
アメリカのマネタリーベース(M0)は、リーマンショック後に劇的に拡大しました。FRBは金融機関を救済するため、大規模な量的緩和を行い、その後もパンデミック対応として前例のない通貨供給を続けました。その結果、M0は2008年から現在に至るまでで約5倍以上に膨れ上がっています。
同時に、マネーサプライ(M2)と比較した貨幣乗数は、かつての5~10倍という水準から、近年は1~2倍程度まで落ち込んでいます。これは一見すると「金融システムの安定化」に見えるかもしれませんが、実際には分母の拡大――つまりFRBが大量に「ベースマネー」をばら撒いたことによって、乗数が相対的に希釈されて見えているだけではないか?という疑念もあります。
言い換えれば、「通貨の裏付けとなる信認」は大きく拡張されたものの、その質はむしろ低下している可能性があるのです。
【補足終了】
この視点に立つと、見えてくる構図が少し変わってきます。現在アメリカで進行しているのは、もはや「リーマン型の信用収縮(信用創造の裏返し)」ではなく、「通貨そのものに対する信認の低下」ではないか。これは、1970年代のスタグフレーション(供給ショック型)とは異なる「通貨信認低下型スタグフレーション」とでも呼ぶべき現象です。
供給ショック型スタグフレーションは、外的要因(原油価格の高騰など)によって価格上昇と景気後退が同時に起きたものですが、現在のものは貨幣そのものの価値が信じられなくなった結果としての、構造的なインフレと成長停滞です。そしてそれが極限まで進行すれば、いずれはハイパーインフレに転じる可能性があります。
この「通貨信認毀損型スタグフレーション」は、金融機関のバランスシートが健全であっても、中央銀行が金利を操作しても止められない。なぜなら、その根底にあるのは「制度」や「金融工学」ではなく、「社会そのものへの信頼」だからです。
アメリカという国を俯瞰してみたとき、かつての自由貿易と自由民主主義の価値観を手放し、自らの身体を切り刻んでいるようにすら見えます。それが、ラストベルトに取り残された人々の悲痛な叫びであるとしても。けれどこの推理を進めるほどに、もっと陰鬱な気分にもなってきます。
冒頭で述べたように、「信用」とは「今ここにないものをあると仮定する」ことによって生まれる仮構の価値です。そしてもし「通貨」もまた、そうした仮構の最たるものだとすれば──その根源にあるのは、おそらく「社会の相互信頼」なのです。人と人が信頼し合える社会でなければ、通貨は成立しません。商売も、労働も、投資も成立しない。そしてなぜそれが恐ろしいのかといえば、もし今アメリカで崩壊しているものが、「金融の信用」ではなく、「社会の相互信頼」だとしたら──それはそう簡単に修復できるものではないからです。
書き忘れてしまったのですが、もう一つ根源的価値を支えるものがあります。それは「健全な身体」です。たとえ全ての金融資産を失っても、我々は大地にじゃがいもを埋めることができる。畑を耕し、作物を育てることができる。でもアメリカという国は、そのように健康な国だったでしょうか?
悲惨なシナリオばかりが頭をよぎりますが、必ずしも絶望だけがあるとは限りません。人と人が営みをともにすること、それ自体が相互信頼の始まりだからです。健全な身体があれば、もう一度耕された畑が生まれます。ただ、その再興の舞台が「アメリカ合衆国全体」ではなく、LAなどの「西海岸の一部」でしかないかもしれないという未来を、僕たちは受け入れる準備が必要なのかもしれません。