本のはなし 「多崎つくる」は「虚無への供物」への供物じゃないか?


僕は以前、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」についての感想を note にまとめた。あの記事を書いたとき、物語を牽引するのは〈シロを殺したのは誰か〉という疑問ではなく、むしろ〈その疑問を抱えたまま、どう他者と向き合い直すか〉だ、と結論づけた。──ところが、後日ふと手に取った中井英夫『虚無への供物』が、僕の中で静かに爆ぜた。読了した瞬間に「多崎つくる」は「虚無への供物」への“供物”なのだと直感したのだ。


両作品に通底するのは「誰が殺したのか」という猜疑心(その背後に潜む剥き出しの好奇心)を物語のエンジンに見せかけながら、最後にはそれを脱臼させてしまう構造だ。もちろん「色彩を持たない多崎つくる」は、一見すると謎解き小説ではない。けれど丹念に読み進めるほどに、読者はシロ殺害の真相──〈誰が彼女を殺したのか〉──という暗渠へ導かれてしまう。ところが作中でその問いは放置され、「犯人が不明のまま終わる」というより「犯人探しに没頭する自分自身の欲望」を多崎つくるがそっと脇に置く姿勢こそが主題になる。一方『虚無への供物』はさらに過激だ。中井英夫は密室やトリックを愉しむ僕らミステリ読者を大胆に裏返し、「殺したのは誰か?」という問いそのものを読者の手に突き返してくる。〈推理の狂騒〉を乗り越えられるか──その臨界に僕ら自身を立たせるのだ。


つまり両者は、謎を提示しておきながら、その謎を解くことより「謎に食い荒らされる自分」からどう抜け出すかを描く。そこでは“犯人”より“読者”の心の使い方が問われる。多崎つくるにとっては、シロの死の真実よりも、長年凝固した自責と恐怖をどう溶かすかが問題であり、『虚無への供物』においては、犯行そのものよりも「犯行を語りたくて仕方がない僕らの欲望」こそが供物として祭壇に置かれる。ふたつの小説は、同じテーブルの上で別々の音楽を奏でながら、〈好奇心と救済〉という隠しテーマを二重奏しているように思える。


そして──ここがいちばん愉快だったのだが──この共通点に気付き得意げに語っていた僕に、知人がさらりと言った。「登場人物が全員“色”の名前を背負ってるのも似てるよね」。グワン、と頭を殴られた。多崎つくるの友人たちはアオ、アカ、シロ、クロ、また灰と緑も。『虚無への供物』は氷沼家の兄弟(蒼司、紅司、藍司、etc)から始まり、鴻巣玄次、終盤に明かされるもう一人の重要人物……挙げれば切りがない。色彩は最初から僕の眼前に広がっていたのに、色にまつわる小説を読みながら色の符号自体を見落としていたのだ。ネットにこのような感想文を発表しておきながら、こんな基本的なことに気づかないなんて間抜けだなと思う。


それでも、だからこそ確信する。色名の洪水は単なる装飾ではない。色は分光される光のように、人間関係をバラバラに解体しながらも、最後には再合成して〈白〉になる可能性を示唆する。多崎つくるがシロの死を抱えてなお“再生”の方向へ歩み出したように、そして『虚無への供物』が犯行と推理の瓦礫を積み上げ、最終的に「虚無」という白い閃光で読者の視界を焼き尽くすように。


結局、僕がふたつの小説に見たものは「謎解き」ではなく「謎の超克」だった。〈誰が殺したのか〉という問いは、僕らが世界に対して抱く底知れぬ不安のメタファーであり、その不安を“解決”ではなく“共存”によって越えようとする姿勢こそが物語の心臓なのだ。そう思えば、シロを殺した犯人が誰であれ、そして読者自身が「虚無」へと差し出す供物であれ、問いの向こう側で僕らを待っているのは、結局のところ“他者と共に生き直す”という、いびつでまぶしい光ではないか。


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