本のはなし サマータイム/シーラッハ


僕がシーラッハを知ったのは闇金ウシジマくんなどで知られる漫画家・真鍋昌平さんがこの作家のことを紹介しているのを読んだからだった。この作家は弁護士であることを利器として、実際にあったのではないかと思われる事件を情に訴えることもなくただ淡々と描く。その描写は単にストーリー単位で“お涙頂戴”に流れないというようなことではなく、むしろ描写の細部に真価が現れることが多い。言い換えるならば個々の描写と、全体としてのハードなトーンは分けがたく結びついている。シーラッハの硬質な描写スタイルを端的に表している文章を引用してみる。

レンツベルガーの前科はわずか四回だったが、新品の金属バットを持っていた。ベルリンでは、ボールの十五倍も多く金属バットが売れる。

フェルディナント・フォン・シーラッハ. 犯罪 (創元推理文庫) (p. 124). (Function). Kindle Edition.

「ベルリンでは、ボールの十五倍も多く金属バットが売れる。」
シーラッハとはつまりこのような表現を許された作家である。


作品概要

今回取り上げたい作品は、短篇集『犯罪』に収められた「サマータイム」だ。

若い女性シュテファニーがホテルの一室で撲殺され、容疑者となったのは援助交際相手の実業家ボーハイム。彼は「14時30分ごろ部屋を出て散歩していた」と主張するが、防犯カメラには15:26にホテル駐車場を車で出る人物が映っている。わずかな齟齬を抱えたまま裁判は始まる。

事件そのものの規模は小さい。登場人物はその他にはアッバスが挙げられるだろう。彼はシュテファニーの恋人であり、彼女が他の男性と関係を持っていることを疑っている。どちらが犯人なのか、そんな問いが浮かんできそうなものだがこの物語は、弁護士である語り手が、そうではない別の方法で物語の幕を閉じる。それが何だったのかを改めて読もうという訳である。

ここで注意されたい
独断と偏見によるのだが、このほんの三十ページ程度の短編はおそらく現代の短編小説の傑作だと思う。カーヴァーの『足もとに流れる深い川』、鏡花の『外科室』あるいは中島らもの『DECO-CHIN』に勝るとも劣らない傑作だと思う。だからもし可能ならここから先は本作を読んでから読み進められたし。アフィリエイトみたいな手法だがこのサイトにアフィリエイトは設定されていない。


シュミートの気付き

ここから先は物語の全容をおおよそ理解しているだろう人向けに書くことになる。おそらく多く人が最後の描写にいささかの困惑を覚えただろうことは想像に固くない。読者が最初に「何かがおかしい」と感じるのは、物語の最終盤、定年退職した老刑事シュミートの独白であろう。

「シュミートは定年退職してから数ヶ月後、時間をめぐる真相に気がついた。のどかな秋の日だったので、彼はかぶりを振るにとどめた。再審請求には不十分だろう。ボーハイムの時計がなぜあの時間を指していたのかも説明がつかないだろう。」(同上 p.122)

この短い一節に、物語全体を揺さぶるようなヒントが埋め込まれている。読者は、あの証言とあの映像、あの時計の針の向きが、それぞれ実際にはどの時刻を示していたのかを、改めて確認したくなるはずだ。シュミートは一体何に気づいたのか。それをこれから詳らかにしていこうと思う。


ミニマルな時差モデル

だがその前に、この謎を解き明かすために理解しておかなければならないサマータイムに関する一つの事実を確認しよう。できるだけわかりやすくシンプルにモデル化したつもりだ。

たとえば、ある部屋に2つの時計があるとする。

  • 時計A:サマータイムに連動せず、冬時間のまま動き続ける
  • 時計B:サマータイムが始まると自動で1時間進められる

3月最終日曜日の午前2時、サマータイムが始まった瞬間、

  • 時計Aはそのまま → 2:00 を表示
  • 時計Bは1時間進められる → 3:00 を表示

それ以降、2つの時計の間にはサマータイムが終わるまで「1時間のズレ」が存在する。これを一度確認した上で事件の概要に入っていこうと思う。


事件概要と法廷の戦い

・監視カメラ : 冬時間で動作。打刻15:26。

・腕時計 : 監視カメラの映像に映ったボーハイムの腕時計が14:26を指していた。

・証言 : ボーハイムは14:30ごろ退室したと主張。

・遺体発見 : 客室係が15:26に死体を発見し15:29に通報。

ここで、一度立ち止まって状況を整理したい。この物語の裁判は、序盤こそボーハイムの証言と証拠の齟齬から不利な方向に傾いていた。監視カメラの映像は15:26を示し、彼の「14:30ごろ退室した」という供述とは一致しない。誰が見ても、証言と事実がずれているように見える。

だが、語り手である弁護士はこの矛盾を法廷での尋問によって逆手に取る。まず、監視映像を担当した警察官に対して「サマータイムの切り替えを行っていたか」と質問し、「わからない」という返答を引き出す。そして、監視カメラが冬時間で運用されていたという事実を明示する。念の為確認すると、事件が起きたのはサマータイムが終わる直前の「のどかな」秋の日である。

さらに彼は、同じ警察官に「映像の中でボーハイムの腕時計が何時を指していたか」と問いかける。警察官は写真を見て「14時26分」と答える。これによって、裁判官や陪審員は、監視カメラの時刻表示15:26が、腕時計の14:26に引きずられるようにして同一の時刻帯だと錯覚し、“14:30ごろに退室した”という証言と矛盾しないと判断するに至る。(数分のズレはあるとしても)

ここで、先ほど紹介した“ミニマルな時差モデル”を思い出してほしい。

あの2つの時計は事件当日にどの時間を示すだろうか

・時計A(冬時間のまま)→ 15:26 を表示

・時計B(夏時間に連動)→ 16:26 を表示

そう、実際の時間は16:26なのである

監視カメラの打刻とボーハイムの証言、そして腕時計の表示を絶妙に結びつけ、表面上ボーハイムの証言から矛盾を拭い去ってしまった。冬時間のまま動いていた監視カメラの映像を逆に1時間戻してしまえば、証拠と証言が見かけ上ぴたりと整合する。そのズレが、証言と証拠を“整合しているように見せかける”決定打となったのだ。

こうして、わずか1時間の認識の違いが、法廷を覆す決定的な「アリバイ」を作り出してしまうのだ。


シーラッハはズレを知っていたのか?

では、このズレを語り手=弁護士は本当に認識していたのか? それを示唆するのが以下の一文である。これは言うまでもなく知っていたことになる。何故ならシュミートが物語の最後にその事実に気づくわけだから、語り手が想定していないという方が道理に合わない。
つまりシーラッハはこの法廷での誤解を、証拠として成立させてしまったのである。さらにもう一つ、特筆すべき、描写に目を向けたい。

「弁護人が証人に尋問する場合にもっとも重要なのは、自分が答えを知らない質問は絶対にしないということだ。」(同上 p.118)

このルールに従えば、語り手は「カメラの時間設定が冬時間だった」ことを認識した上で、警察官に、写真に映るボーハイムの腕時計の時刻を読ませている。決して、「夏時間換算では何時ですか?」とは聞かない。語り手は監視カメラの打刻が15:26であることと、腕時計の示す時刻が14:26であることを示したに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。

裁判は真実を追求するための場ではない。無罪を勝ち取るゲームの場である。


それでも読者は「誰が殺した?」と問う

だがそれでも読者は、「本当は誰が殺したのか?」と問いたくなる。そもそもボーハイムがホテルを出たのが本当は16:26だったとしても、それはボーハイムが犯人であるという確たる証拠とは言えない。

だが、アッバスもしたたかだった。とうとう自白をせず、事件は今なお解決していない。アッバスを起訴することはできなかった。証拠不十分だった。(同上 p.122)

この描写を読むと、弁護士はアッバスを犯人として見ているという一定の解釈も成り立つ。ただその解釈にはひとつの保留が挟まる。先程の引用を思い出してもらおう。「弁護士は答えを知らない質問をしてはいけない」と彼はいう。法廷でアッバスは関係者として証言をしたが、弁護士は彼に一つも質問をせず、関係者に面食らわせている。

私はアッバスに一切質問をしなかった。裁判長は驚いて私を見た。(同上 p118)

推測だが、弁護士はアッバスが犯人だと目星をつけつつ、それでもここ(法廷)は真実を見つけ出すための場ではないと判断したのであろう。サマータイムのトリックに気がついて、弁護士の冷たい眼差しに気づくまでがこの小説の第1層であるならば、このアッバスへの沈黙が第2層と言えるかもしれない。確定しない事実には触れない。


終わらない疑問

ここまで読んでくださった方にはぜひとも第3層の案内もしなければならない。ここからは僕個人の憶測も多分に含まれるが、個人の憶測が含まれない感想など、お豆腐の入っていない味噌汁に等しい。簡潔に述べる。

  1. ボーハイム犯人説
    • 腕時計14:26は撲殺の瞬間に止まった → 死体発見時刻は15:26だが14:26に殺されていた可能性は十分ある。
  2. アッバス犯人説(その他ボーハイム以外の第3者に殺されている可能性も含む)
    • ボーハイムがしていた腕時計はUTC基準のものだった。

まず第一に考えなければならないのは何故ボーハイムの腕時計は映像で14:26を指していたか、である。その原因の1つ目が撲殺の瞬間に壊れた=犯行時刻が14:26であり、止まった時計が実は犯行時刻を指し示していた可能性である。もう一つはボーハイムの職業に関わるのだが、彼は自動車部品メーカーの大株主であり実業家である。小説内ではもうすぐアルザスのネジメーカーを買収する予定があるとの言及もあり、海外への出張も多かろう。

ドイツのサマータイム中の時刻はUTC+2である。つまり非サマータイムのドイツ(UTC+1)より1時間進んでいる。では、仮にボーハイムが、ドイツより時間の“遅い”国、たとえばイギリス(UTC+0、夏時間中は+1)に出張していたとしたらどうか。
彼がロンドン出張から戻ったばかりで、腕時計の設定を戻していなかったと仮定しても──それが指すのはせいぜい15:26である。16:26と14:26という“2時間のズレ”を正当化するには、どうしても無理がある。
残る仮説はただ一つ。彼が常にUTC±0を基準とした時計を着けていた可能性だ。パイロットや国際ビジネスマンのように、日常的に国境を越える職業であれば、当時の環境下(GPSやスマートフォンがまだ普及しきっていない)において、固定タイムゾーンの時計を使う実用的理由があったとしてもおかしくない。ボーハイムがそうであった明確な描写はない。だが、否定する材料もまた存在しない。

つまり結局読者が辿り着くのは、

  • ボーハイムが殺した。14:26はまさに犯行時刻で時計はその瞬間止まった
  • 誰が殺したかはわからない。アッバスが有力だが、ボーハイムはUTC±0時計を着けていた可能性

という二つの平行線だ。

恐ろしいのは、もしかしたらシーラッハが最後にアッバスに疑いの目を向けたことそれ自体がポーズだったのかもしれない、ということ。この平行線に(シーラッハは)気づいておきながら、作中では(語り手)にアッバスへの疑いを語らせたのだとしたら。その疑いを補強するように、どちらの場合でもボーハイムが16:00に会合に出たという事実が宙に浮いたまま残る。いずれにせよこの決定不可能性。それこそがこの小説の第3層であると僕は考えている。

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