なぜだか昔(といったってまだ12年の人生)から金星に興味があって、西側の空の夕闇をずっと見てる。夕闇の空にはじっと僕を見つめている目があるの。その目は宙にずっと浮かんでいて、不思議な怪奇現象とかではなくてアニメみたいにわくわくするものでもなくて、ファティマ第三の予言に近いのだと思う。ポルトガルのファティマ村で子どもたちが遭遇した出来事を本で知ってやっぱりとなったし、ずっと「在る」ことがわかっていたから、怪訝?になるだろうとは思いながらも母親や姉にも訴えた。「人類がまずいことになる」。でも、夕闇に浮かんでいる目については黙ってる。そう、黙っていなきゃいけないんだ。使命感なんだって思う。ドンキホーテを読むことを勧める金星人のお兄さんの「教え」。
ある夏休みの夕方、早めにお風呂へ入った後に髪をタオルで乾かしながら部屋に戻ったら金星人のお兄さんは西側の窓の先に立っていて(僕の部屋は2階にあって、つまりそのお兄さんは宙に立っていた)、お兄さんから金星人だという自己紹介があったわけでもなくて、それでも直ぐに金星人だとわかってしまった。夏になると西陽はとても強くて、この時間の西側の窓は夜まで開けっぱなしで、金星人のお兄さんは「窓のない部屋」のように直線に歩を進め入ってきた。その後にあったたくさんの「教え」「約束」についてはまたいつか話をするとして、今回は空飛びについて。
あの電線をくぐり抜けその先にある空き地へ着地すると決めれば僕の身体は紙飛行機よりも安定して降りてゆく。飛行後の疲れやお腹が空くことも眩暈もない。どちらかというとジェットコースターから降りた後の感覚。ジェットコースターが嫌いな人もいるだろうけれども僕は好きだったりする。爽快感というみたい。空飛びがどういうものか、まずは空飛びについて説明しなくてはわかってもらえない。特に空飛びの爽快さを説明しないと僕が言いたいこと、まだみんなが知らない宇宙のことをわかってもらうことが出来ないと思うの。空を飛んだ後に感じたことに1番わかりやすいことがあるから。金星人のお兄さんがいう「すべては意識体なんだよ」ってそれはね、空飛びが眠らないと出来ない仕組みだから。飛んでみてわかったこと。
空飛びから目覚めると冷んやりするものが必ず右側の頬にあって顔を傾けると隣りに寝そべってる金星人のお兄さんの顔がある。初対面の頃、金星人と地球人の顔についてお兄さんに訊いたことがある。金星人と地球人の顔は「ほぼ」同じだと教えてくれた。「ただし体温には15℃ほどの差があるからね」と算数テストのアドバイスみたいに付け足しをいってた。空飛びの後には必ず地球人に限り施さなくてはならない処置がある。それは純正律と平均律でそれぞれの「月光」を交互に聴くこと。ピアノは必要がない。お兄さんが「聴こえてる?」と言うのと同じタイミングで僕の耳には「月光」が聴こえてきた。最初は驚いたけれどお兄さんと僕の唇と唇の間が10cmもないからなのか、驚きよりドギマキした。傘を忘れた雨の日の帰り道に通学路とクラスが同じ陽子と傘のなかで、なんとなくキスをすることになった時、ドキマキという言いかたを覚えた。金星人のお兄さんの顔は冷んやりするから、怖くなる。生きてるのに冷たい肌は昆虫や爬虫類にはありえるけど、人の肌ではありえないと思うから、だから怖くなる。
純正律と平均律についてのお兄さんの説明で僕が昔から(だいたい小2ぐらいの頃から)音楽の授業中に体調がおかしくなる原因がわかったの。世界は平均律で具合が悪くなっていて、僕は生まれる前が金星人だから(地球人に僕は今回?なってるらしい)平均律はだんだん身体を悪くするんだと。具合が悪い世界へ帰っていかなきゃだから空飛びの後には平均律に身体を慣らせては合わせ込む必要があるらしい。実際には施しをうけなかったことがないからわからない。
「君が空を飛べるのはね、偶然じゃないんだよ」と、お兄さんは言って黙る。
言葉にならない沈黙というのだと思った。僕はなぜかその沈黙の意味を知っているような気がした。
「空飛びは、地球人が意識体であることの証なんだ。君がその感覚を“爽快”って言うのは正しい。でも、本当はあれ、君が自分という殻から抜け出したときの解放の記憶なんだよ」
空を飛ぶ時、体はとても軽くなる。重さがないってことじゃない。ただ、“重力じゃない何か”がなくなる。僕の中に、地面に縛りつけていた重い考えや、時間や、先生の目や、宿題のことや、みんなと同じようにしなきゃいけないあれこれが、ぽろぽろって剥がれていく感じ。空気が体の中に入ってくる、ってより、僕の中から空気が生まれてくる感じだった。
「空飛びのとき、君は“個体の肉体”じゃない。君が意識体であることを一瞬、自分でちゃんと思い出してるだけ。金星人はそれを“浮上感”って呼んでる」
浮上感。たしかに、浮いてるんじゃなくて、浮かび上がってくる感じなんだ。つまり、地上から飛ぶんじゃなくて、意識の奥から飛びあがる。
「僕が子どもの頃、最初に飛んだときもそうだったよ」
お兄さんはさらっとそんなことを言う。「金星にも空はあるの?」と訊いたら、「あるけど、こっちのほうがずっとキレイだ」って嬉しい返事だった。
空飛びを10回やった僕は、空を飛んでる時の気持ちがだんだん現実の身体に染みついてきていて、着地のときの足の裏の感触や、電線をよけるときの肩の角度、風が耳をかすめる音。目覚めてからも、ちゃんと残ってる。
「空飛びを通して、意識が“世界”に気づきはじめる。これが本当の進化だよ。物理的に宇宙に行くよりずっと大事なことなんだ」
最近になって僕は人類について考えるようになってね、空飛びは、金星人が地球人に仕掛けた、最初のメッセージだって気がついたの。 「目覚めていいよ」っていう、最初の、やさしい風のような。目覚めるたびに、ほんの少しずつ意識の世界に近づいてる。そう、お兄さんが言ってた。「地球の進化は、空飛びから始まるんだよ」
いろんなことを金星人のお兄さんは教えてくれた。月についても。あれも金星人がつくったんだって。お兄さんは「たとえばね」と言い、粘土遊びみたいであり、テストで間違って答えたのに正解扱いされる感じだという。そういう運命的なズレみたいなことを、金星人は「ゆらぎ」って呼んでるらしい。なんかオシャレな言葉。
「君たち地球人が、物体ばかり見てる限りは、まだ“世界の裏”に気づけない。でも意識体のレベルに気づいたとき、ようやく金星人たちのほんとうの姿がわかるんだよ。まあ、まだちょっと先かな。たぶん」
「これは一種の伏線ってやつさ。あとで気づくと気持ちいいからね」
お兄さんはそう言って、また横になった。冷んやりした顔が、うっすら笑ってる。
「ドキマキの先にあることだね」
と僕は真顔で返した。