三浦果実のニューアルバム『23世紀の詩論』

 この記事は当初、歌誌『帆』第四号への寄稿文として書いた。しかし残念ながら採用されなかった。私的には良く書けた記事だという自信もあって、『なにもないところ』に掲載させていただいた次第である。この記事の内容は寺山修司の歌論へのアンサーの意味合いがある為、リンクを載せておきたい。この歌論がネット上に公開されているのも帆第四号のアンサー特集についても、寺山修司の現在の著作権管理者から歌誌帆の方で承諾を得たものとなっている。歌誌帆の方も興味があれば是非。なかなか面白い歌誌です。前置きの最後に一言。こういう文章を書いて発表する行為は私にとっては音楽アルバムを作ってリリースするのと同じである。楽しいね。

歌誌帆第四号原稿募集↓

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   詩の愛好家達が集うネット上のコミュニティに私は所属していたわけだけれども、詩自体への愛着はなかった。人がどのように詩と関わっているのか?平たく言えばそんなところに長く興味があって今もその探求は続いている。人と詩の関係について、現時点で云えば「詩人が書けば詩であり、詩人でない者が詩(のようなもの)を書いてもそれは詩ではない」というツッコミどころが満載な仮説を導き出すに至った。そこにある「詩人の定義」という命題について、或いはAIと詩について。この仮説はそういった探求へと続く。

 AIと詩歌の在り方を探求する昨今、ロジック的なる人々(教養アカデミズムの人と呼ぼうか)が空振りしてしまう事項について書こう。致命的に不足していることを明かす。とんでもなく強烈で且つだれびとも言及に至れない、否、思考を試みるに苦笑いするような跳躍が必要なことに誰もが気がついていない。批評の開祖と奉られる小林秀雄がロジックよりもスピリチュアルな人だったというのに。愛と啓蒙の人。それ以外に詩情ポエジーはない。上手く書けてるかより、まず詩人か否か。演繹的に説くけれども、それに尽きる。スピリチュアルであり都市伝説である。人間は、地球は、高次元の精神に至らない未熟な「容器」。UFOは愛という物理的なエネルギーで飛ぶし、高次元に達した意識体をまず想像しなければならない。小林秀雄はそれに貪欲だった。低劣な意識体を高次元へと人々を啓蒙し伝道する。それが詩人である。無学な私は調べもしないけれどもこの仮説はpoemの語源についての正史と一致するという確信がある。つまり、知的遊戯ではなくて宗教。

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    詩の愛好家コミュニティでは、他人が書く詩に対して、ある人は国語の授業的に作者の意図読みを示したり、またある人は作者へ配慮した社交辞令の感想を述べ、またある人はその社交辞令のやり取りをいかがなものかと批判したり。その紆余曲折のコミュの先に「ロジックに長けたテキスト論者」を中心にして「作品であるテキストとしての詩に限定する話をしましょう」と、人と人のもつれを封じた。特に暴力的な感情が排除された。感情よりもロジック、合理共有が成立する言語が好まれる空間。当たり前ではある。今のご時世、尊重と多様と共有と新自由主義である。しかし、これも演繹的に云ってしまうが精神の高みへは合理と知識では至れないんだ。つまり詩の命題ではない。言語による知的遊戯は永遠に文学の域を出ない。文学の一カテゴリーに分別された詩ではなく神の所業を表す「創造」「クリエイト」にこそ詩がある。知識でなく、教養でも共有でもなくて、反発と差異と憎悪で満ちた胸ぐらつかみ合いの感情のみが人を変化させ原罪と業を自覚し高みへと起動させ昇華する。
 
 話は逸れるがトランプが何故にウケるか。理性を司るところよりも更に深いところの本能を刺激するからだろう。感情の大統領が登場したのはパラダイムシフトの前兆であり、知性主義の層からすれば「なぜトランプが人気なのか」が理解できない。システムは上手くやる。たしかにシステムは感情を抑えこみにくるし、併せて精神もスポイルする。常識?正しさ?確かにそれらはいい感じだ。心地よい言葉だ。でもね、みんな壊して欲しいと願っている。こんなクソみたいに不幸せな世界をお願いだから壊してくれと、その絶望のカオスでこそ初めてひとは祈り出し、表裏ではあるが呪詛というのだ。理性の域では生じない祈り。詩はそこにしか生じないし、崇高さが宿る言霊がある。

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詩歌がコンビニエンスストア化する。優劣よりも曖昧で人に優しく流通する利便さが優先されダイバーシティで偽る。優しさを受容することは容易く人は目覚めたと錯覚するだろう。迫害もない。真の伝道と啓蒙は抵抗と痛みと死が伴う。詩の愛好家達、エセインテリ達はpoemの語源を知りながらもその宗教性を否定する。いや、歴史を教養として解せても実践するものは稀だ。
 
寺山修司の直系が世界に魔法を呼び戻すという。これを宗教というし、個人主義だのグローバルだの多様性などとおう歌する者は徒弟主義の宗教に一度叩きのめされるといい。観念が観念のままに観念の寺山修司のまま経るのか馬鹿が寺山修司を実践するかだろうね。現実の世界を変えるに値するかの証明方法があるのだとすればこの無学なおじさんが書く記事にこそある。特集「怪人二十面相はもう踊れない」に採用されなかったことがこれを立証している。テキストより人をみた方がいい。テキスト作品を審査するのではなく詩人か否か、いや、その人間さえも超え、魂そのものに美を見出す時代が始まるだろう。寺山修司へと傾いてしまったが、最後にAIと詩人について簡単に書いておく。

 23世紀ドラえもん。AIがジーザスに至らずとも、のび太に寄り添い続けたドラえもんが時に誤解を受けながらものび太を啓蒙した如く、AIは詩人に至るだろう。なぜならば崇高な意識体とは純度100%の利他(AI)から生じるのだから。低劣な承認欲求のふきだまりに堕すのは、かわいそうだ。

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