三宅香帆著『考察する若者たち』を読み終わった。以下端的にまとめる。
おそらく著者のコアにある問いが考察/批評の二項対立における考察の台頭に対する疑問符だと思われる。考察は正解があるもので、批評は正解のないもの。令和の時代、SNSやアルゴリズムの普及とともに、徐々に人々が考察を好むようになったのはなぜか。
その理由は「報われ感」と説明される。答えがないもの、正解がないものを延々と考えたってそれは「それって個人の感想ですよね」と言われてしまう世の中で、正解がある、答えがある、といった短期的でわかりやすい報酬がより重視されているという話。その「報われ感」を軸に話は萌え/推し、ループもの/転生もの、或いは自己啓発/陰謀論といった平成から令和にわたり変化した流行についても敷衍していく。
ここからは僕の感想。批評好きな人間として頷くところが多かった。特に萌え/推しの軸や、ループもの/転生モノの軸は考えてもいなかったので、若い人が普段触れているカルチャーに触れることって大事だなぁと感じた。あと単に新しい世代が慣れ親しんでいる文化を否定するわけではなく、「あの花」に対する説明で言及されているような、「ガチャ思考」を逆手に取る、みたいな考察ができるのもとても良いなぁと感じていた。つまるところ、この本は若い人への呼びかけの書であり、僕みたいな若い人がなに考えているかよくわかっていないひとに対する説明書でもある感じ。
ここからはもう少し自分の中で考えてみたいこと。現代のアルゴリズムとSNSの時代が「批評の時代」を終わらせた、というよりもそもそも人類の歴史って大部分「考察的」ではなかったかな? という疑問。人類の歴史っていってもヨーロッパ人の歴史しかあまり知られていないからなんともいえないのだけど、世界に答えがない、正解がない、と考えられ始めたのってせいぜい19世紀くらいからなのでは? と思った。
18世紀の終わりにリスボンで大地震があって名だたる哲学者が、その地震がなぜ起きたか、善良な人々が暮らしていたはずの土地をなぜ神はこのような仕打ちをしたのか、みたいな論争が起きたときカントが書いたのが地底の空洞が地震を起こすという説だった。その説自体は間違っていたが、カントは地震と神を切り分けて考えようとした、かつ重要なのが、そのことに新規性があったということ。つまり、それまでの神学と哲学が混ざりあった状態において、この世界のあらゆる出来事は神の御業と関連付けられて考えられた。
奇しくもカントがその後自らの著作を表現するのに使った言葉が批評(Kritik)だったが、おそらくこのあたりから、世界には確たる神の絶対の意思に必ずしも沿わない出来事が度々起こる、ということを理解していったのではないか。その流れの中に実存主義がある。実存主義は人間をただ世界に投げ出された存在と規定する。つまり我々の生に意味はないのだ。そしてその無意味に耐えることが哲学の一大テーマとされた。一方でマルクス主義は歴史を過去から未来へと続くリニアなものとして捉え、そこには進歩があると仮定した。ある意味でマルクス主義はバックラッシュ的である。この世界が無意味なものであり、階級も格差もそれは未来永劫仕方のないもの、と捉える事ができなかった人たちの熱狂でもあった。
その後のいわゆるポストモダンが、歴史や、宗教、或いは個人でさえ解体していく。世界に意味などないし、宗教はよくできた世界の説明のバリエーションの一つだし、個人は異なる事象に様々な反応を示す報酬系の複合体ににすぎない。
これらの種々の考え方を一概に批評的/考察的と分けることはできないが、概ねヨーロッパ文明は世界を批評的に捉えていく過程を辿った。(例えばマルクスは神の意思を否定したという意味では批評的立場ではあるが、歴史は来たるべく未来に向かうリニアなものであり、正解があるという意味で考察的である)
むしろ「批評の時代」が傍流なのではないか、というのが僕の直感である。現代に生きる若者が、「正解」を求め、異なる界隈との越境を恐れ、自らのキャラを遵守しつつ最適解を選ぶのは、人類の本来の姿かもしれない。つまり人類は無意味に耐えられるようにはできていないのがSNSやアルゴリズムの台頭によって急速に明らかになった──こちらのほうが正確なのではないか。
なぜヨーロッパ文明が例外的に「批評的」である時代を謳歌したのだろうか。それを豊かだったからではないだろうか。突飛な例かもしれないが、意味(≒正解≒答え)は会社運営において利益と似ている。会社にいくらでもネットキャッシュ(現金)があれば、無意味(赤字)にも耐えることができる。蓄えがあれば、その先を見越して設備投資(人生を豊かにする趣味)をすることができる。けれどネットキャッシュがない人にいくら人生は無意味(赤字)だけど美しいと言ったところで、明日倒産するかもしれない会社には何の慰めにもならない。ほしいのは利益(意味≒正解≒答)であり、含蓄に富んだ素晴らしい考えではない。SUBARUが日産にいくら「目先の金ではなくブランドの未来を」と言っても多分響かない。
以上は勝手な妄想に過ぎないが、いつか古代から現代までの一般的な庶民、農民の生涯のバランスシートの変遷を比較したものが発刊されればいいなと思う。僕の課程が正しいとすれば、「批評的な時代」とはキャッシュフローがプラスでバランスシートが拡大していた時代、と言い換えられるのではないか。そして言うまでもなく現代は(名目ではなく実質の)バランスシート縮小の時代が始まったということなのではないか。
