牛乳の温度

Ⅰ 高木三智絵

 彼女は眠りにつくことを覚えられなかった。夜になると、身体だけが布団に残り意識は店の蛍光灯の下を歩き続ける。数えきれない商品の影、値札の裏の埃、父の声の残響。眠りはいつも閉店後に現れない客のようだった。苦しむことは先に覚え、苦しみながら働くことは、その次に。

 高木儀三郎商店は曾祖父の代から続いている。乾物と雑貨を半分ずつ扱い、時代に取り残されながら、それでも消えずに残ってきた店だった。祖父が守り父が預かり彼女は最初から「継がない存在」としてそこにいた。

 店の前の路地で「本下水道の入替工事」が始まると聞いた日、父は掲示板の紙を睨みつけた。「税金の無駄遣いだ」と吐き捨てるように言った。抗議文を書く父の背中を彼女は何度も見てきた。赤い文字、難しい言葉、市民、責務、沈黙は加担であるという決まり文句。「貼れ」と言われ彼女は紙を受け取る。「やめて」と言うことはできない。言えば何かが変わるとは思えずに後ろめたさが夜になると増殖する。返済能力を失った人が破産を申請する直前の感覚を彼女は想像する。経験はないが何かがもう支払えなくなっていることだけが判る。

Ⅱ 高木勇一

 父は眠りを信用しない。眠っているあいだに社会は黙って間違っていく。目を閉じることは怠慢に近い。高木儀三郎商店は責任で「継いだ」のではない。「預かっているだけだ」。革命が起きればいつでも返す覚悟がある。覚悟こそが正しさで、下水道工事への抗議はその象徴だった。誰も疑問を口にしない。誰も止めない。だから自分が止める。それだけのこと。抗議文を書く手に迷いはなかった。

 言葉は刃物のように研がれていく。貼り出すことで彼は眠らずに済む。娘は黙っている。それでいいと父は思った。沈黙は理解の証だけれども娘が眠れないことにも気づいていた。だが眠れないことは悪いことではないし世界の歪みに気づいている証拠だと、そう信じて夜をどうやり過ごしているかなんて想像しない。正しさは万能だ。そう信じていれば想像しなくて済む。

Ⅲ 高木真智子

 夜は冷える。それは思想よりも確かなこと。娘の目が眠っていないことに母はすぐに気づいていた。布団の中で身体は休んでいるのに意識だけがどこにも行けていない目。冷えたままの目。牛乳を温める。それは祈りに近い行為であり甘くも苦くもない、温度が世界と身体の境目になる。

 夫は正しさの人だ。間違いを見つけると放っておけない。だが正しさは身体を温めない。市議会議員に立候補すると聞いた夜、母は顔を歪ませた。怒りでも諦めでもなく、これから家の中がまた寒くなると分かった。娘の身体が早熟で無自覚な「女」を宿していることを母は知っていた。性は守りにもなる。刃にもなる。だから聞かなかった。聞けば壊れる何かがあると分かっていた。

Ⅳ 高木三智絵

 彼女は「言葉」で身体を触れられることを覚えた。中学三年の頃だった。店の常連の男。折り目正しい服装。会計のたびに手を握って離さない。眠れない夜には薬より効く方法がある、それは「言葉だ」と男は言った。彼女は信じた。信じることは眠りに似ていて「言葉」を並べられると意識が遠くなる。言葉で触れられていると、そこに不安な闇はない。眠りに近づく感覚。父は知らない。母にも知られたくない。母が知ればそれを父の正しさの罰だと考えるだろう。そう思っていた。

Ⅴ 高木勇一

 父は最近、抗議文を書くのに時間がかかる。文字が揺れ怒りの焦点が合わない。かつては世界が単純だった。敵と味方。正義と誤り。一方で娘は黙る時間が増えた。それは「娘の身体が成長している」のだと父は思いたかった。もし正しさが娘を守れていなかったとしたら。その可能性を考えると胸がざわつく。だから考えない。考えないことも選択だ。

Ⅵ 高木真智子

 母はあの男を知っていた。娘が中学三年の頃、店に来ていた折り目正しい常連。ある日、母は見てしまった。レジの奥で男の手が娘の手を必要以上に長く握っているのを。その瞬間、母は声を出さなかった。出せなかった。正しさを持ち込めば娘は壊れる。問いただせば夫は暴れる。だから何も言わない。それが母の選んだ方法。その後、男は来なくなった。母が静かに遠回しに店に来ないように仕向けた。娘には言っていない。夫にも言っていない。その事実は回収されないまま母の中に沈んでいる。

 温めた牛乳の底に沈殿する、白い影のように。

Ⅶ 高木三智絵

 彼女は今も眠れない。だが理由が一つではないことを薄々感じている。父の正しさ。母の沈黙。自分の言葉。不幸はいつか終わるのだろうか。遠い国で壁が崩れ人々が安らいだように。彼女は眠りの入口を探し続けている。誰にも教えられなかった方法で。

 父が死んだのは冬の終わりだった。革命は起きなかった。商店も世界も少しずつ古びただけだった。葬儀のあと彼女は一人で店に入った。シャッターは重く音も鈍い。蛍光灯を点けると白い光がかつての日常を照らし出す。壁にまだ貼られていた。父の抗議文。紙は黄ばみ端はめくれテープは力を失っていた。それでも文字だけははっきり残っている。彼女はそれを剥がさなかった。読むためにそこに立った。

 父の文字は角ばっている。正しさがいつも締切に追われているような字だった。彼女は初めてその文章を最初から最後まで読んだ。正しいことが書いてある。間違ってはいない。けれどそこには夜のことがない。眠れない子どものことも牛乳の温度もレジの奥で男の手が離されなかった時間も。抗議文は昼の文章だった。光の下でしか成立しない正しさ。紙を剥がすと壁に四角い跡が残った。そこだけ少し色が違う。夜はまだ冷えている。けれど彼女は初めて眠りが拒絶ではなくいつか戻ってくるものとして身体のどこかに置かれた気がした。壁は崩れなかった。世界も正しさもそのままだった。ただ、抗議文の貼られていた場所だけが少し色を変えて夜を覚えていた。

 

VIII

 彼女がその名前を知ったのは、父の死から三年後だった。偶然だったと言えるほど無垢ではないが必然と呼ぶには遅すぎた。地方紙の文化欄。小さな記事だった。「詩集刊行」。地味な見出しの下に見覚えのある名前があった。折り目正しい客の名前。彼は詩人だった。それも長く静かに書き続けてきた人間だった。

 彼女はすぐに本屋へ行かなかった。眠れない夜が続き数日が過ぎてから商店街を抜けた先の古書店でその詩集を見つけた。新刊なのにすでに埃をかぶっていた。装丁は簡素だった。白い表紙。角がきちんと揃っている。彼女は最初のページを開いた。そこには夜について書かれていた。眠れない人のための詩。身体がどこにも行けないまま言葉だけが先に横たわる夜。上手な詩だと思った。言葉は抑制され感情は直接書かれていない。まるで誰かの呼吸を盗み聞きしているような距離感。その距離感が彼女を吐き気に近い感覚へ導いた。詩の中に店が出てきた。乾物の匂い。蛍光灯の白。レジの冷たさ。名前はない。年齢も性別も書かれていない。けれど彼女には分かった。詩人はあの時間を書いている。

「触れられなかった部分ほど、言葉は長く残る」

 その一行で、彼女は本を閉じた。詩人はあの時間を作品にしていた。触れられなかった、と書き換えることで触れていた事実を消していた。数日後、詩人の朗読会があると知った。

 市民ホールの小さな会議室。入場無料。高齢者が多いと書いてあった。彼女は行った。詩人は老いていた。背筋はまだ伸びていたが手は震えている。あの頃と同じ折り目正しい服装だった。朗読は静かだった。会場は眠りに近い沈黙に包まれる。彼は最後にこう言った。「言葉は、人を救うためにあります」

 その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて崩れた。朗読会が終わり人がまばらになる。彼女は立ち上がり詩人の前に立った。

「覚えていますか」

詩人は一瞬、首を傾げた。それからゆっくりと理解した顔になった。

「……ああ」

 それだけだった。彼女は何も言えなかった。言えば詩になると分かっていたから。数週間後、詩人は死んだ。自死だった。遺書は短く「言葉に責任を持てなかった」とだけ書かれていた。新聞は文化人の訃報として淡々と報じた。彼の詩がどれほど多くの人を「救ってきたか」が語られた。彼女は二度とその詩集を開かなかった。燃やすことも捨てることもできず押し入れの奥に折り目正しく仕舞った。

 その夜、彼女は眠れなかった。眠りはもう戻ってこない気がした。言葉は人を救う。同時に人を殺す。彼女はそれを知ってしまった。夜は相変わらず冷えている。壁はどこにも崩れていない。ただ言葉だけが折り目正しく誰のものでもない顔で生き残っていた。

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