海と波について


シャッターを躊躇う指の隙間
滑り落ちたスマートフォンは運良く彼女のバッグに収まる
もう一度拾い上げると、滑らかなフォルムに反射した光が
風もないのに海に向かって走る
ビーチパラソルによって作られた影
脇に置き去りにされた花火の燃え差し
昨日の夜のものだろうか
バケツにはまだ水が張っている
レンズは夏に向けられている
シャッターの音
凪いでいたはずの風が堤防にぶつかって
女は波のように流れていく髪を押さえる
ちょうど彼女の立っている場所を追い抜くとき
ちらりと見えた画面に写っていたのは
打ち捨てられた花火ではなく
自撮りされた彼女の顔
浜辺に下りて花火を拾い集め
大事なものでも持つみたいにバケツを持ち上げる
パラソルは夏が終わるまでそのままにしておく

祖母の葬儀が終わった
姉が背を伸ばし
もう少しここでゆっくりしたいな
なにしろ、こんな静かな海はあっちにはないからね
わたしも木原のことが頭にあったので
弓もそうしたいと思ったでしょ
いつも以上に語尾を伸ばして発音する姉の言葉に
そうだね、と答えた
涼くんももう少しお婆ちゃんのおうちいたい?
両手を顔の横で開いてばぶおに近づける
ばぶおは夏フェスみたいにはしゃいで姉の手に両手を何度も打ち付ける
母が氷の入ったグラスに麦茶を入れている
溶けた氷がグラスの中でからんと音をたてる

波は規則的に足首に襲い掛かっている
ここで太陽の光はほとんど白色だった
それは今も変わらない
わたしは高校時代にしていたように波を百回数える
くるぶしを砂が撫でていく
引き遅れた水が足の指をなぞっている

スプーンに離乳食を乗せてばぶおの口に運ぶ
食べる瞬間スプーンを少しだけ手前に引く
そうするとばぶおの前掛けが汚れないことに気づいた
この前見た時はまだ母乳しか飲んでいなかったのに
ばぶおは順調に体細胞分裂を続けている
離乳食はばぶおの体細胞分裂を促進する
そうするとやがて減数分裂した細胞を作り出せるようになる
姉がばぶおの父親としたように
減数分裂した細胞をくっつけあって
新たなるばぶおを作る

気づいた時にはばぶおの顔は徐々に歪み始めていた
首を絞められたかのように顔が赤らんで
あと2秒かからずに泣き始めるだろう
お姉ちゃん、ばぶお泣いちゃった
姉がゆっくりやって来てばぶおを抱き抱える
いい加減名前覚えろっつーの
姉の手がわたしの頭を無理に掴もうとする

それじゃあ木原くんは弓に愛想が尽きちゃったわけかあ
食後のコーヒーを飲みながら
姉が大袈裟な素振りで母に何かを訴えている
まるで、サッカーの試合中とんでもない不正があったのに
審判が何も見ていなかったみたいに
木原は最初、自分も好きとかよくわからない、と言っていた
壁にかけてある時計から一時を告げる鐘の音が響く
十数年間聞いてきた、低くてとても控えめな音だ
聞いてくるんだ。わたしが木原のこと好きなのかって
姉は結局不正が認められなかったサッカー選手のように
やれやれ、と手を両側に開いて首を振った
母の息が鼻から抜ける時の音がする
その音を聞くとなんだか落ち着く
そう思った時には母は
コーヒーのおかわりを淹れに台所に立った後だった

波が規則正しく足首に襲い掛かる
いま太陽は燃えるように赤く
わたしは海について考える
小さい頃から海はそばにあった
海の生き物について調べ、海を渡る貨物について調べた
けれどどれもピンと来なかった
波に運ばれた海藻が脚に引っかかる
時折、強い波が飛沫を生み顔にかかる
がん細胞はこれ以上分裂を続けるべきでない個体に仕掛けられた
自壊プログラムだと本で読んだことを思い出す
夕暮れ
生き物たちの

ばぶお、姉、ばぶお、姉
頬の同じところに畳のあとがついている
交互に見ると似ているところが多い
テレビのコマーシャルでは皇潤を飲んだというお婆さんが
ひたすら階段昇降を繰り返している
姉が笑うとばぶおが笑う
その逆もまた然り

台所の電気は消えていた
見慣れた光景だったがその暗闇が
いつもよりほんの少し暗さを増している気がした
最初、
押し留めた息だけで歌を歌っているのかと思った
それから鼻をすする音が聞こえた
いつもの落ち着くような音ではなく
張り裂けるような、いや
何かとても大切なものを
諦めるような

そっと玄関を開ける
ここに住んでいた頃は
夜中に隠れて海に行こうとすると
よく母に窘められた
でも止められたことはなく
最後に、できるだけ早く戻って来なさいね、と
靴下を履いていない足に
日暮れ前に濡れて、まだ乾いていない靴がひんやりと冷たい
月明かりが眩しいくらいで
砂がきらきらと光っている
とても静かだ
あらゆる生物が
夜を全うしている
くるぶしを波に浸す
波の音だけが証だ
この世界が静止していない
唯一の証だ
そして、
祖母がそこにいることに気づいた
いつの出来事だったか
あれも夜だったと思う
祖母は抜け出してきたわたしを背後からじっと見ている
わたしは波を百回数え終わって
祖母がそこにいることをふと疑問に思う
歩きにくい砂浜を難儀そうに近づいてきて
わたしの顔を見た
あの日も眩暈のするような
月の明かりに溢れていた
おばあちゃんな、弓さ似でらんだ
わたしがおばあちゃんに似てるんじゃなくて?
そんな言葉を飲み込んだ
ある日なぁ
海があって波っこ生まれでるんでねぐて
いっぺ波っこ集まって海になってらんだべなぁ
そう思ったんだぁ
そう告げられた途端
貝殻も 脱ぎ捨てた靴も ビーチパラソルも
まるで聞かれてはならない呼吸を
堪えているのではないか
そんな予感でいっぱいになった
そして、
その全ての気配を
波が暗闇に引き摺り込んで
完全な夜が生まれた
そこにわたしは一人で立っていた
息をする音が聞こえた


ほら、ゆっちゃんにバイバイは?
ばぶおが夏フェスみたいに手を振っている
けれどまだ「ゆ」を発音できず
うっちゃんになっていた
口腔内の体細胞分裂がまだまだ足りていないな
そう評価を下してばぶおのほっぺたを触った

姉の車のエンジンが遠ざかって
母は肩の力が抜けたのか縁側から海を眺めていた
風鈴の音がちりん、ちりんと鳴って
わたしもそろそろ帰ると伝えた
あんたぁ
母は何かを言いかけてやめた
代わりに息が鼻から抜ける音がきこえた
いつもと違った母の表情を見て
何を思ったのか、わたしは母にピースサインをしてみた

海は呆気なく遠ざかっていく
遠ざかっていくほどわたしは強く海を感じようとした
けれど滑らかなエンジンの駆動は
波の不確かさや曖昧さとはどうにも結びつかなかった
家の近くのコンビニに車を停めた
夕食がないといつもあんまんを買って食べる
いつものように安い買い物を済ませ自動ドアが開き
飛び込んでくる見慣れた景色になぜだか驚いた
そういえば木原は甘いものが苦手だよな
踵を返すとあんまんをもう一つ買って同じ袋に入れた
冷めないうちに、そう思って
アクセルを踏む脚が少し震えている

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