大宮事変

 

新宿は豪雨。大宮は曇り。そんな都合よく出てくる「あなた」なんて私には存在しない。スマホを弄ってSpotifyの再生を止めると、電車が枕木を叩く耳慣れた音が聞こえて、窓から入ってきた曇った光が足元にとまっている。午前十時なのでそう混んでもいないけど、何故か子供が多い。子供は一生懸命「いろはにほへと」と叫んでいる。絶叫していると言ってもいい。私はもう一度Spotifyの再生ボタンを押す。大宮は曇り。

駅で降り東口を出てしばらく歩くと「メディア学園」と看板のかかった胡散臭いオフィスがある。就労移行支援とやらで、私のようなニートにExcelやらパワポやらを教えてくれる場所、らしい。けれど、ここはちょっとだけ特殊で、動画編集のやり方を教えてくれる。その微妙な違いが私には大事だった。Excelでいくら関数を覚えても歌舞伎町の女王にはなれない。歌舞伎町の女王になりたいわけではないんだけれど、そこらへんも微妙で、動画編集を覚えて、自分でゲームをやって動画にすれば、ちょっとしたなにかになれる気がしないでもない。

お昼は千代ちゃんと近所のファミマに買いに行く。サラダチキン、パン、野菜ジュース。千代ちゃんもメディア学園に通っていて、席が近い。なんというかちょっとアレで、いつも誰かが自分のことを好きかもしれない話をしている。私は千代ちゃんと過ごすことが好きなのかはわからないけれど、彼女と一緒にいると心が何グラムかだけ軽くなるような感じがする。今日も千代ちゃんは首元にフリルの付いたピンクの服を着ていて、私に話しかけるときだけ少し声が大きい。野菜ジュース。柚希ちゃん、ゲーム配信するときちょっとエロい話題とかしてみるといいかも。「いいかも」のあとの余白に甘ったるさが残って、私はなんとなく窓を開けたくなる。サラダチキン。パン。

家に帰ると、だいたい自室にいる。ご飯はかろうじてリビングで食べるけど、ワイドショーで誰と誰が結婚しただとか、不倫しただとか、そういう話を聞く度に、体のどこかを少しずつ削られている気がして耐えられなくなる。部屋に戻り、親に色々無茶を言って買ってもらったゲーミングPCをつけて配信の準備をする。ゲームはその時一番流行ってるやつ……をやればいいんだけど、マイクラしかわからないからマイクラをしている。洞窟の中を丁寧に湧き潰ししながら、チラチラと視聴者の数字を確認する。二人。一人は別アカでログインしている私自身だから実質一人。マウスを握る手に汗が滲んでいるのがわかる。千代ちゃんが言っていたことが頭の中を何度も行ったり来たりしている。

「あの、こんばんは、ゆずきちって言います。今日はマイクラをします。っていってもいつもマイクラなんですけどね、えへへ」
横目で視聴者数を見る。増えていない。
「あの、豆腐ハウスってあるじゃないですか。最初に建てちゃう、四角い、豆腐みたいなおうち。ゆずきち的には、あの豆腐ハウスが、なんというか、そうだ昨日、ちょっとだけドキッとすることがあって。えと、聞きたいですか? なんか、話すの恥ずかしいんですけど、全然下ネタとかじゃなくて、ただちょっとだけそっち系っていうか、わたし実は、あ」
数字が2から1に変わる。そのあともしばらく、あの、と、えっと、だけが続いた。配信を切る。新宿は夜。大宮も夜。

思ったより長い首を伸ばして目を薄めている亀のアイコンの千代ちゃんからラインで着信があった。「柚希ちゃん、今、氷川神社まで来れる?」私は面倒だな、と思った。けど口はもう「いけるよ」と言ってしまっていた。大宮まで電車で行ってもいいけど、氷川神社なら歩いてでも行ける。カーテンを開けると外はもう完全に夜だった。少ない街灯と頼りない月明かりで、少しだけ夜の黒が薄くなっている。私は歩きやすいスニーカーを履いて、できるだけ音をたてないように家のドアをしめた。

氷川神社に着いて何度かラインのやり取りをしていたら、水槽のようなものを抱えた千代ちゃんが暗闇の中からすぅっとあらわれる。どうやら水は入っていないみたい。千代ちゃんはいつものピンクとかフリルとか、そういう服ではなく、普通にジャージで、胸元にはご丁寧に「倉田」と書いてある。街灯の下で待ち合わせしたはずなのに、千代ちゃんが何を持っているのかすぐには気づかなかった。メイクもしてない彼女の目が随分と腫れていることに気づいたのと、ほとんど同時だった。アイコンだ。千代ちゃんはアイコンの亀を水槽だかなんだかに入れて、ここまで来たんだ。

「柚希ちゃんありがとう、ごめんね」
「どうしたの千代ちゃん」
「あのね、家に帰ったら、千代ちゃん元気なくて」
私は黙って彼女の声に耳を傾けた。
「あんまり動いてないなあとは思ってたんだけど」
「伸びをしているだけだと思ったんだけどね、最初」
「でもなんか、ちょっと手足が変なふうに曲がってて」
「それで手に乗せたときにジュースみたいな重さだなって」
「千代ちゃん死んじゃったんだって」

私が何も言えずにいる横で、千代ちゃんが人目を憚ることなく泣き出してしまった。泣いている千代ちゃんの肩に手を置いて、嗚咽の切れ目を待った。
「一つだけ聞いてもいい? 千代ちゃんって亀のこと?」
返事は返ってこないが、千代ちゃんは私の右腕に頭をこすりつけるみたいに何度も首を縦に振る。その間も、そんなに泣くことなのかな? と思う私なんて置き去りにして、千代ちゃんは激しく泣き続けた。こぼれ落ちた涙が私の手首を伝って地面に落ちる。生ぬるい、それと少しくすぐったい。そんなことを考えていた。

しばらくして、落ち着いた千代ちゃんは、ぽつぽつと、私を呼び出した理由を教えてくれた。亀の千代ちゃんは小学校の入学祝いに買ってもらってから、ずっと一緒にいたこと。学校にいけなくなったときも、死にたかったときも、いつも千代ちゃんだけがそばにいたこと。ちなみにオスだということ。「それ親に反対されなかったの?」とどうしても口を挟んでしまったんだけど、名前をつけるとき、千代ちゃんは絶対に千代ちゃんにすると言い張ったこと。私はそのあたりから、返事の仕方がよくわからなくなった。そして今日のこと。千代ちゃんは亀の千代ちゃんを氷川神社、というか大宮公園の小動物園の近くに埋葬したいと言った。氷川神社から小動物園まで歩きながら、亀の死体の横に小さなスコップが入っていることに気づいた。死体遺棄罪、にはならないと思うけど、不法投棄になるのではないか、と頭の中で少しだけ嫌な考えが浮かんだ。数週間ぶりに部屋を片付けるときに見つける、まだ中身の入ったジュースの缶とか、お菓子の袋の中身とかを思わず想像してしまう。そういうたぐいの、なんだかちょっと嫌な感触。

「柚希ちゃんは、動物園、来たことあるんだよね?」
「うんあるよ。小学校の頃に遠足に来たり。ふつうに日曜日とか」
「そっか。わたし大人になってから引っ越してきたから、どんな動物がいるのか知らなくて、もし知ってたら教えてくれる?」

小動物園前の開けたスペースが見える。私の記憶ではこのスペースはもっと広くて、ワクワクして走り回ったり、ジュースを買ってもらったりして過ごす場所だった。いま私の目の前に広がっているのは、ただの風景だった。それにしても千代ちゃんは「大人」なのだろうか。私も人のことは言えないけれど。

「クビワペッカリー」
「クビワペッカリー?」
「そう。クビワペッカリー、でもそれくらいしか覚えてない」
「ありがとう」

広場のど真ん中はさすがに目立つと思ったのか、千代ちゃんは端の方で木の葉混じりの土をスコップで掘り始めていた。数日前の雨で柔らかくなった土は、おもちゃみたいなスコップでも簡単に掘れた。そこまで大きな穴ではない。でも亀が入るには十分かもしれない。

千代ちゃんは亀を埋葬するときにもう一度泣いた。さっきとは違う泣き方だった。私は見ないふりをした。土を被せ、平らになった地面になにか印を立てなくていいのか聞いたら、「そんなことしたら迷惑になっちゃうから」と返ってきた。まるで諭されているみたいで嫌だったけど、その嫌さに少しだけ安心した。こんなとこに埋めること自体迷惑だよ、という言葉は飲み込んだ。

「わたし、悲しいこととか、辛いこととか、そういうのばっかりだったけど、それでも生きてこられたのは千代ちゃんのおかげだった。……ごめんね。気づいてあげられなくて。痛かったり苦しかったり、しなかった?
わたし、バカでゴミだから、千代ちゃんの正しいお世話、なにもわかってなかったかもしれない。ごめんなさい。
クビワペッカリーさん。どうか千代ちゃんが寂しくないように。千代ちゃんと話したり、遊んだりしてあげてください。お願いします。どうかお願いします。わたしがいつかそっちに行くとき、たくさん、クビワペッカリーさんの好きな果物とか葉っぱとか持っていくから。集めて、持っていくから」

しばらくの沈黙のあと、千代ちゃんは立ち上がった。名残惜しそうにやや盛り上がった土を見つめ、少し後ろで立っていた私の顔を見た。「行こっか」と言う彼女の口の動きはわかるのに、彼女の声が聞こえてこなかった。サイレント映画みたいだった。私は感動したわけでも、呆れ返ったわけでもなく、ただ体のどこかを公園に置き忘れてきた。「ここからだと大宮駅より鉄道博物館のほうが近いね」という千代ちゃんの口の動き。私たちは鉄道博物館駅の方向に歩いた。言葉はあったかもしれないし、あまりなかったかもしれない。住宅街を抜け線路をくぐるだけの短い地下道を歩いていると、灯りが滲んでいることに気づいた。まさか泣いているはずもなく、それはただ滲んでいた。トンネルを照らすオレンジのナトリウムランプが何重にも滲んで見えた。ふとこんなことを思った。パパとママが愛し合ったから、とかそういうことではなく、私は何のために生まれてきたのだろうか。そんな考えが浮かんではオレンジ色の灯りにくべられて燃えていった。

何のために生まれてって
それアンパンマンの歌詞じゃん
そもそもクビワペッカリーってなんだよ
なんでペットに自分の名前つけてんだよ
バカでゴミってわたしへの当てつけかよ
それアンパンマンの歌詞じゃん
不法投棄じゃないのかよ
勝手に埋めていいのかよ
わたし何のために生まれたんだよ
だからそれアンパンマンの歌詞じゃん

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