文学とは、うまい文章のことではない。美しい比喩があるから文学なのではない。語彙が豊富だからでもない。改行が巧みだからでもない。まして「文学的」という形容詞を貼りつければ、そこに文学が発生するわけでもない。
文学とは、文脈のことである。
ある言葉が、なぜそこで発せられなければならなかったのか。その言葉の背後に、どれだけの時間が沈殿しているのか。誰が、何を失い、何を得て、何を恐れながら、その言葉の場所まで辿り着いたのか。
言葉は単独では文学にならない。
言葉が、それまでの人生と接続したとき、文学になる。
だから、格闘家・青木真也の独白には文学性がある。
それは、彼が格闘家でありながら、ときどき作家のように話すからではない。逆である。彼の言葉が文学的なのは、あまりにも強く「格闘家・青木真也」という具体的な人生に拘束されているからだ。
青木真也という人間の言葉を、その肉体から切り離すことはできない。
勝利と敗北。契約。金銭。家族。年齢。衰え。承認欲求。自己嫌悪。格闘技界における自分の位置。かつて自分が何者だったのか。そして、いま自分が何者であるのか。
そのすべてが、独白の背後にいる。
だから彼が「素直に」「正直に」カメラの前に立つということは、単に本音を語るという意味ではない。
人間が、自分自身の人生の文脈から逃げられなくなった瞬間を見る、ということだ。
ここに文学がある。
小説であれば、作者は登場人物を設定することができる。過去を与え、傷を与え、葛藤を与える。そして物語を編集することができる。
しかし青木真也には編集権がない。
過去の敗北を消すことはできない。老いを若さに書き換えることもできない。かつて口にした言葉を、なかったことにはできない。
格闘家の人生は、試合結果という、きわめて残酷な注釈によって書き加えられていく。
しかも、その注釈は本人が書くものではない。
勝てば「まだ終わっていない」と書かれる。
負ければ「もう終わった」と書かれる。
しかし、本人はそのどちらの文章にも完全には同意できない。
そのズレがある。
自分の人生について書かれた文章と、自分が自分について語る文章との間にズレがある。
青木真也の独白がおもしろいのは、まさにそのズレのなかにいるからだ。
文学とは、説明ではない。
説明がつかないものの周囲に、言葉を置いていく行為である。
格闘家が試合前に語る言葉には、ふつう、目的がある。
自分を鼓舞する。観客を煽る。対戦相手を挑発する。スポンサーに配慮する。物語をつくる。
しかし独白が文学に近づく瞬間、それらの目的が少し壊れる。
「この人はいま、何のために喋っているのだろう」
そう思わせたとき、言葉は急に危険になる。
青木真也の独白には、その危険がある。
格闘家としては、もっと上手に喋ることもできるはずだ。もっと格好よく自分を演出することもできる。もっと勝者らしく、あるいは英雄らしく、自分の人生を整理することもできる。
しかし人間は、人生をきれいに整理した瞬間、少しつまらなくなる。
矛盾しているから人間なのではない。
矛盾を矛盾のまま抱えて、それでも翌日を生きるから人間なのである。
そして文学は、その「それでも」の周辺に発生する。
青木真也の言葉には、しばしば結論よりも前提が重い。
何を言ったかだけでは足りない。
誰が言ったのか。
なぜその人が言うのか。
なぜ今なのか。
そして、その言葉の直後に、彼は何をするのか。
ここで決定的なのは、彼が格闘家だということだ。
作家は、原稿を書いたあと、原稿で責任を取る。
青木真也は、言葉を発したあと、肉体で責任を取る。
ここに、格闘家の言葉の異様な重さがある。
「こう思う」と言ったあとに、リングが待っている。
思想のあとに打撃が来る。
感傷のあとに絞め技が来る。
自意識のあとに敗北が来るかもしれない。
これは小説のようでありながら、小説ではない。
なぜなら、結末を誰も書けないからだ。
文学とは虚構をつくることだ、という考え方がある。
しかし、もっと恐ろしい文学がある。
現実が、あまりにも出来すぎた文脈を持ってしまうことだ。
若いころの自分。
強かったころの自分。
社会に噛みついていた自分。
格闘技界に居場所がなかった自分。
そして現在の自分。
それらが一人の人間のなかに同時に存在していて、カメラの前で言葉になる。
そのとき、独白は単なるインタビューではなくなる。
人生が、自分自身を引用しはじめる。
私は、そこに文学を見る。
文学とは、文章のジャンルではない。
人間が自分の人生を背負ったまま言葉を発したとき、その言葉の背後に発生する、巨大な文脈のことである。
だから青木真也の独白には文学性がある。
それは彼の言葉が美しいからではない。
彼の言葉の背後に、消すことのできない時間があるからだ。
文学とは、言葉そのものではない。
言葉が背負っているものだ。
そして格闘家・青木真也は、言葉を発したあとも、その言葉を背負ったままリングに行く。
だから、その独白は文学なのである。
文章を書く人間が書くから文学なのではない。
人生が、その人間に文章を書かせてしまったとき。
そのとき、文学は始まる。
