第93章 みんな誓わなければならない

 悲観はわれわれの情念からやってくる。そして楽観は意志による。誰だって何もしないでいたら悲しくなる。悲しみなんて言葉は充分ではない。すぐに彼は怒り、猛りだす。似たこととして、子どもたちの遊びにもそれを見ることができる。もしルールがなければ、ただの喧嘩になる。コントーロルのきかない元気は自らを引っ掻く。そのことのほか理由なんてない。有り体に言えば、いい情念なんて存在しない。情念は、正確には、いつも悪いものなのであるし、すべての幸福は意志とセルフコントロールからやってくるのだから。どちらに転んだにせよ理屈なんて奴隷にすぎない。われわれの情念は驚くべきシステムを作る。その顕著な例を狂人に見ることができる。迫害されたと信じているものはいつでももっともらしく能弁にものごとを語る。楽観主義のおしゃべりはひとびとをリラックスさせる類いのもので、怒鳴り散らすのと反対の態度をとり、広びろとした気持ちにさせる。トーンが大切なのであって、言葉はメロディーよりも重要ではない。われわれの情念からは、犬の唸り声のようなものを、いつもきくことができる。真っ先にそれを改めさせなければならない。まだ病がわれわれの中にあるうちに。それが外に向かえばさらなる病をもたらすのだから。そういう訳で礼儀は政治的には良いルールである。この二つの語は親戚である。礼儀正しい polite ものは 政治的 politics である。

 不眠症がこれについてわれわれに教えてくれることがある。たったひとつの困難が、存在そのもの自体が耐えられないと思うようなあの感覚に導いていくことは誰にとってもよく知るところだ。だがそのことについてきちんと調べてみる必要がある。セルフコントロールは存在の一部である。いや、どころか、存在を宰領し確固たるものにするものだ。それはまず行いによってあらわれる。丸太にノコギリをかけている男の心の声なんて、どうにでも彼のためによくなっていくだろうし。一隊が狩りに出ていたとしたら、獲物を追う犬たちは喧嘩なんてしない。なので丸太切りをすることが思考の病の療法の第一である。しかし徹底的に醒めきった思考というものは、救いにもなりえる。選択することによって、空気を入れ換えるのだ。不眠症の症例についての話に戻ると、あなたは眠ろうとしているのに、あなたはあなたの一切の動きを止めろと命じている、あるいは選択するなと。こういったセルフコントロールの欠如のなかにあって、観念と行いの両方は決められた路線を進行していく。犬たちが喧嘩を始めるのだ。やることなすこと痙攣的になり、あらゆる思いが噛みついてくる。親友すら疑いはじめ、すべての解釈が気に召さないものになる。目にするあらゆるものが愚かで、馬鹿げたものに思えてくる。こういったイメージは非常に強力なもので、丸太を切っている場合ではなくなる。

 このことは明白に、楽観主義は誓約を求めているということを教えてくれる。最初は奇妙に思えるだろうが、幸せになるためにわれわれは、誓わなければならない。犬どもの唸りを主人の鞭でもってやめさせなければならない。心得のために言っておくが、あらゆる悲しい考えは嘘だとみなさなければならない。これは全く不可欠である。われわれはなにもしないでいたらすぐに自然と不幸を作り出すのだから。退屈というものがそれを証明している。だが思考それ自体が噛みつきだすのではなく、自分で自分をけしかけることがいらいらさせるのだ。眠りかけの幸せなときに身体は全身リラックスしている。そんな状態は長くは続かない。われわれがこのように感じていれば眠りは遠くないからだ。この自然の流れがなせる眠りかたには、絶対的に半端な考えをさせないということがある。考えるか、まったく考えないかだ。われわれの経験の教訓が教える通り、コントロールされていない思考は嘘なのだから。こういう元気のいい決断はそういう半端な考えというものを、夢のレベルまでさげる。しかも棘のない幸せな夢への道を舗装する。逆にもしすべてのことが重要だと思いなすのは白昼夢への鍵である。不幸せの鍵なのだ。

1923年9月23日

この本からの重訳

kolya

2件のコメント

  1. 白昼夢というのは、自発的かつ無意識的に起こるそうですね。作業をどう執行するかという問題は、働き方ということの問題です。我々は何重の夢によって包まれているのでしょう。

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