火山の噴火口にゴミ処理場を作ればいいんじゃないか、と子供の頃に思ったことはないだろうか。溢れかえるゴミを燃えたぎる溶岩の中に次から次へと放り込んでいくのだ。燃えるゴミも、燃えないゴミも、そんな区分そこではなんの意味もなくて、等しく跡形もなくなっていく。幼い頃にはとても魅力的な解決に思えたし、同時に頭の片隅には「そうなっていないということは、そういうことなんだろう」という悟りもまた存在していた。
中学生の頃に背伸びをして村上春樹の『風の歌を聴け』を読んだ。多くのおませな子供たちがそうであるように(そうであって欲しい)「『風の歌を聴け』を読んだことがある」という項目にただチェックマークを入れるためだけの読書だった。久しぶりにあの小説を読み返すと、あの頃の自分の読解力の無さは地球上でもワースト3に入るのではないか、と絶望的な気持ちになる。
僕が寝た三番目の女の子について話す。死んだ人間について語ることはひどくむずかしいことだが、若くして死んだ女について語ることはもっとむずかしい。死んでしまったことによって、彼女たちは永遠に若いからだ。それに反して生き残った僕たちは一年ごと、一月ごと、一日ごとに齢を取っていく。時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐しいことに、それは真実なのだ。
村上春樹. 風の歌を聴け (Japanese Edition) (Kindle の位置No.805-809). Kindle 版.
やっと背伸びなんてせずに『風の歌を聴け』を読めるようになった。あの頃、陰部にキンカンを塗ったらやべえぞ! って友達とバカみたいに笑っていた頃よりも、少しだけ大人になった(なっているといいよね)僕らはこんな文章にちょっとした微笑みを返す術まで心得ている。「それは真実なのだ」じゃないよ。「三番目に寝た女の子」はどこに行ったんだよ。などと。
弓の達人のことを思い浮かべてほしい。彼は矢を放つだろう、どんなに厳しい状況でも、どんなに狙いが杳として定まらなくても。けれど放たれた矢は素人から見たらおよそ超次元的な過程を経て的を射るだろう。では文章の達人はどうだろうか? 表したい事象をぴたりと言い当てるような表現、的の真ん中を射抜くような抜群の比喩、書かれた言葉を読むと同時に頭の中に作者の表現したい光景がもうすでに広がっているような……?
実際のところ村上春樹ほど文章がうまい人なんて存在しないんじゃないか、と僕は思っている。弓の名人のようにぴたりと事物を言い当てる表現もとても上手だ。でも上記の引用を読み直してほしい。ここで書かれているのは死者と生者を宿命的に別つどうしようもないほどの時間的な性質、などではない。ここで書かれているのは「ほんとうに書くことができるだろうか」という迷いだ。まるで定期テストの前日に部屋の掃除を始めてしまうように、彼は机に向かい参考書をしばらく眺めたのち、掃除機を手に取る。ここには記された言葉とは別のニュアンスが押し込められている。
かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。高校の終り頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。
村上春樹. 風の歌を聴け (Japanese Edition) (Kindle の位置No.922-925). Kindle 版.
「失語症」と言ったら大袈裟だろうか。ただ『風の歌を聴け』は失語症の文学なのだと改めて思った。でも言葉それ自体は恐ろしいほど雄弁なのだ。「雄弁な失語者」の文学と呼べばいいだろうか。だからさっきの「三度目に寝た女」の話のように言葉はとても雄弁に何かを語ろうとしている。実際は何も語られていないのに。その他にも自らの「街」について語る場面でもそうだ。けれど言葉は的を射抜くことはない。そもそも狙うべき的が最初から無いかのように。
村上春樹がこれほどまでに多くの人たちの支持を得て、そして同時に彼のことを理解しない人たちに毛嫌いされる理由は、彼の最も核心的な文章が何かを語るためではなく、何も語れないことを確認するために書かれるからだと思う。だから「リンゴ・ジュース」の中黒までもが憎らしくなってくる。嫌味っぽい言い方だと思うけど、僕もまたフローベールやトルストイの良さをミリも理解出来ない人間なのでおあいこということでご容赦願いたい。
ところでさっきの引用のように彼が「クールに生きたい」と考えて、口に出すまいと決めた心の半分側はどこに消えたんだろう。多分、村上春樹に共鳴するような人は、大人になり、社会生活を送っていくに従って言葉を内側にしまい込んでいった人たちなんだろうな、と思う。「言葉に出さない」ことと「無くなってしまう」ことがイコールだということを、嫌でも経験してきた人なんだろうな、と。
冒頭に何気なく書いたけど、火山の噴火口にゴミ処理場を作ることはどうやら出来ないらしい。運送コストもかかるし有毒ガスも発生するだろう、おそらく爆発とかもする。一方で心にはそんな制約はなかったのかもしれない。行き場のない感情、それがプラスのものであれマイナスのものであれ。或いは伝えることで何かを壊してしまうかもしれない言葉。そういうものを一旦はしまい込むつもりで、けれど取り返しつのつかない形で放棄し、僕たちは大人になってしまった。言葉はたくさん覚えたのに、語りうる事が余りにも少なくてびっくりしている。
ある種の笑いというものは、心のいちばん奥にある暗い穴のようなもので、なにかあると私たちはそこに逃げ込んで、外の世界の嵐をやりすごす。そうやって私たちは、バランスを取って、かろうじて生きている。
岸政彦. 断片的なものの社会学 (Japanese Edition) (p.80). Kindle 版.
閑話休題。
僕にはちょっと変わった趣味がある。ある小説を読み終わった人にその小説のプロット(とはいえ大筋とは関係ないような部分)をさも自分の体験談のように話してみるという遊びだ。試してみるとわかるのだけど「なんでこの人は突然こんな関係のない話をし出したのだろう」と思われるだけで、ほとんど気付かれたことはない。たまたま「風の歌を聴け」を読み終えたばかりだ、と友達が話していたのでこんな話をしてみた。
「犬の漫才師ってやつがいるんだよ。ラジオのDJなんだけどね」
「音楽がかかっている間にコーラを飲んでしゃっくりが止まらなくなっちゃうようなやつでさ」
「夏休みも終わりかけの頃だったかリスナーから手紙が届くんだよ」
「そのリスナーってのが不治の病を患ってる女の子なんだけどね」
「いつもラジオを聴いてるんだって。外に出ることもできないからね」
「犬の漫才師はその手紙を読んで海辺に出かけてみるんだ。なぜなら手紙には病室からは海が見えると書いてあったから」
「そして確か、何かを言うんだけど……えーっと、何を言うんだっけ」
…………
知らないよ! とツッコミが返ってくる。そりゃそうだよ、と思う。
でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。
僕は・君たちが・好きだ。あと10 年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。
村上春樹. 風の歌を聴け (Japanese Edition) (p.115). Kindle 版.
言葉というのは時々火山の噴火口に直接手を突っ込んで、そして引きずり出すような、ある種の困難そのものに見える時があるよね、と言う話。
ukari