ほんの少し前までは、「考える」ということが好きだった。答えが存在しないことを考えているのは楽しかった。例えば、映画や小説の主人公の気持ちとか。電車の車窓から見える家にどんな人が住んでいるのか、とか。『生きている』とはどういう状態なのか、とか。そういう、小難しいけど完全なアンサーの存在しないことを考えるのは、自分の妄想力が刺激されて楽しかった。
でも、最近になって「全ての物事にはアンサーがある」ことを知った。これまで正解などない、と信じ込んでいたこと全てに、明確な答えがあるのだ。映画や小説の主人公の気持ちは、その主人公を作り出した作者が正解を知っている。車窓から見える家には、住んでいる人がいる。『生きている』とは呼吸をしている状態のことで、それ以上でも以下でもない。答えが無いと思っていたことの答えというのは思ったよりずっと単純で、簡単で、つまらないものであった。
きっとこれが、大人になるということなのだろう。つまらない人間になってしまったものだ。
そもそも、どうして私が「全ての物事にはアンサーがある」という結論に至ったかというと、自分自身が間違いを犯すことを必要以上に恐れたからだ。映画や小説の感想を述べるとき、「私はこう解釈したけれども、もしこれを作った監督や作者がどこぞのインタビューで『これはこう捉えられるかもしれないがそうではない』と言っていたらどうしよう」と思ったり。「私はこの家にこういう人が住んでいると予想したが、本当に住んでいる人が『こういう人が住んでいるとだけは思われたくない』と考えていたらどうしよう」と思ったり。「私は『生きている』ということをこう定義したいと思ったけど、これを専門的に研究している人が見解を出していたらどうしよう」と思ったり。
こうやって好き勝手に文章を使って表現する、ということを行なっている以上、「間違ってはならない」のだ。数十年前であれば、些細な間違いはスルーされたかもしれない。が、今は2022年、令和は4年である。誰もが、インターネットに転がる「正確な知識」とやらを目にすることができる。違和感を抱かせてはいけないのだ。今私は世界中と繋がっていて、世界中にはその分野の専門家だっている。そう考えた時、「間違い」というのは非常に怖いものになる。自分にとっての些細な間違いも、世界にとっては大きな間違いかもしれないのだ。
人間の意見というのは、いつまで経っても噛み合わないものである。噛み合わないものであるから、細心の注意を払わなければいけない。それを理解して争いを避けたいと思った人々が、「つまらない人間」になっていくのだろう。世界は、人間に厳しくなりすぎたのだ。何が「表現の自由」だ。そんなもの、どこにも存在しない。
mazireal
表現というのは、自由ではありません。それゆえに、表現というのは自由なのです。だから、人は、表現は自由でなければならない、自由でなければならない、というのでしょう。