兎角に人の世は住みにくい、と書いたのは夏目漱石である。夏目漱石が生きていた明治から大正にかけてですらそうであったのだから、令和の今など尚更その通りだ。科学も学問も発展し、分からないことが少なくなり、簡単に答えが手に入り、何もかもが「当たり前」になっている今、その「当たり前」からはみ出た人間は本当に生きにくい。
石槍でマンモスを追いかけていた頃に返ろう、というわけではないが、人間は一旦歩みを止めてもいい頃なのではないかと思う。標高の高いところに行くとポテトチップスの袋がパンパンになってしまうのと同じで、人間は現在の物事の発展の速度に付いていけていないのではないだろうか。
人間の脳というのは、「物事を考える」ようにできている。その能力を使って人々は便利なものを開発してきた。インターネットなど、その最たる例だ。欲しい情報が、欲しい時に、簡単に手に入る。それは本当に便利で素晴らしいものだ。
だが、もしもこの世界に夏目漱石がタイムスリップしてきたら、夏目漱石は「この世は住みやすい」と言うだろうか。おそらく言わないと思う。街行く人々はみんな、住みにくそうな顔をしている。みんな何かに追われていて、みんな何かを心配している。辛そうな顔をしていない人がいたら「悩みが無さそうでいいね」と叩き潰し、みんな生きていることを申し訳なさそうにしている。一体何に謝りながら生きているのか。こんな人々を見たからには、夏目漱石も「この世は住みにくい」と言う以外に無いのではないかと思うのだ。
考えることを、辞めさせられている。疑問なんかすぐに答えを検索すればいい。もう既に答えのある疑問など、考えているだけ無駄なのだ。もっと新たな、違う角度から考えないといけないのだ。なんでも見つかるこの世界で、「まだ」答えが見つかっていない疑問を捻り出さないといけないのだ。
でも、そんなのはまだ人間には早かったのではないか。人間の考えを遥かに超えていく「AI」が発明され、人間の脳が及ばなかった問題が次々に解けていく。そうしたら次に人間がやるべきことは、「人工知能も解決できなかったようなことを考える」ことになってくる。効率を求めた結果、さらに人間は生き急ぐことになる。そして私のような無知な人間は、何が起こっているのか訳も分からぬまま、その「生き急ぎ」に巻き込まれていくことになる。別に生き急ぎたいわけじゃないのに、波に飲み込まれて溺れていく。みんながみんな、人の首を絞めて生きていくことになってしまう。
ぐるぐると勢いを増す渦の中で、ぼんやりと空を眺めながら、「ああ、私はこうやって死ぬのだな」と思うのだ。何に巻き込まれているか、どうして巻き込まれたか、どうすれば抜け出せるのかも分からないまま、速すぎる世界の波に足を取られて、気付かないうちに死んでいくのだろうな、と思う。
mazireal