深夜三時、猛烈な足のダルさで目を覚ます。ダルさの原因は分かっている。「一日中座りっぱなし」が良くないのだろう。蹴り飛ばしたクッションを足で挟んで引き寄せ、足を高くして眠る。
常に、ぼんやりとした不安に包まれている。この先どうなるのか、私はどこへ向かっているのか、自分の存在意義とは何か、何もかも分からずに、ただ一日が過ぎていく。きっかり二十四時間で、何かある・何もない日々が過ぎていく。いつの間にか、歳を取っている。
昔、「学生」というものであった頃の自分は、全てのことを「大人の自分」に後回しにして生きていたように思う。大人になれば、二十歳を越えれば、自然と勝手に自分の思い描いた人間になれると思い込んでいた。今、目の前にあることをひいひい言いながらギリギリで片付けていけば、将来は安泰であると、先生たちの言うことを変に解釈して生きていた。
どうやら違うらしいな、と勘づき始めたのは「学生」ではなくなってしばらく経った頃で、その頃は「学生」でもなければ「大人」と言えるほど成長してもいなかった。そのどちらにも所属していない自分というのは、ある意味最強で、出来ないことを全て「学生の自分」と「大人の自分」の両方のせいにできた。そして、自分では「大人ではない」と思っていても、世間的に見れば大人であるという、心と評価の乖離が生まれ始め、その後やっと自分が「大人」になってしまったということを理解せざるを得なくなっていった。その頃になればもう、誰のせいにもできなくなり、それと同時に「努力が実るというのは限りなく綺麗ごとに近い」ということも理解できてきた。もちろん、努力はそれなりに実ることがある。でもそれは、「自分がやってきた努力」と、「周りの評価」がたまたま一致した結果である。つまり、「自分の努力」が社会に何の影響力も及ぼさない場合、一生「努力が実る」ことはないのだ。
それは、「学生」を卒業して社会に出た時に嫌というほど思い知った。私は、コミュニケーション能力が無く、部活動もしておらず、運動能力など皆無な典型的な陰キャヲタクであった。でも、勉強さえ頑張れば、それだけでも必死に頑張っていればなんとかなる、評価してもらえると思ってきた。それなりにいい点数・順位を取った。
が、それらは世間に出れば「で?」というほどのことなのである。私は甘えていたのだ。「これだけやっていればなんとかなる」なんてもんは無いのだ。もっと外に目を向けておくべきだった。早くに気付くべきだった。
そんな過去の過ちのことばかり考えてもしょうがないのに、それをひたすら考えてしまうのは、多分「大人の自分」も誰かのせいにしたいからだろう。「大人の自分」は、「過去の自分」のせいにしたいのだ。そうやって過去のせいにばかりするから、いつまで経っても前に進んでいかないのである。
それも自覚しているから、無性に悲しく、悔しく、苦しいような気がして、足元のクッションをさらに引き上げてきて、ぎゅうぎゅうに抱きしめながら目をつむる。夜が加速していく。また一日、歳を取ろうとしている。
mazireal