そこには本があり、そして私がいた

飽きっぽくなったな、とつくづく思うのは、買った小説が減っていかないときだ。小学生の頃の私はというと、毎日本を一冊読み切っていた。図書館は家から遠かった。なので私の読書はもっぱら、学校の図書室と、週に一回近くの公園にやってくる移動図書館くらいなもんだった。移動図書館がやってくると、貸出限度MAXである10冊を大きなエコバッグみたいな鞄に詰め込み、引きずるようにして家に持ち帰り、ちゃんと一週間後には読み切っていたものである。今思えば、かなりすごいことをやってのけていたことが分かる。

現在の私は、一冊の本を読み切るのに一体何日かかるだろう。図書館で借りるのは常に一冊なので、一冊を一週間かけて読んでいることになる。kindleに入っている「ドグラ・マグラ」に関しては、おそらく半年ほど読み続けているのにまだ40%ほどもページが残っている。
集中力が低下していることに合わせて、気を散らす物も増えてしまったのだろう。小学生の頃の私の趣味は、本当に読書だけであった。その頃はまだ絵も描いておらず、身近な場所にインターネットも無く、携帯電話すら持っていなかった。本当の意味で、本しか無かった。だから、学校から帰ったらすぐに本を読み、ご飯を食べてからも本を読み、寝る前にも本を読み、どこか外へ出て行くときにも本を持っていた。

今思い返してみて思うのは、どう考えてもあの頃の方が幸せであったということである。簡単に言うならば、「欲」が無かった。私はただ、本の世界にのめりこめたらそれでよかったのだ。それ以外は何も求めていなかった。もっとお金が欲しいだの、もっと技術を身に着けたいだの、もっと人に褒められたいだの、そんな欲求は一切無かった。ただそこには、本があり、私がいた。ただそれだけのことだ。

私はその頃のことを思い出す度に、あの頃の私に戻りたいと思う。何も知らず、ただ、本があって、私がいた、それだけの世界に戻りたい。私の世界は真っ白だった。至ってシンプルな世界だ。ただそれだけの世界に、なぜ戻れないのだろう。戻りたいと願うのに、なぜ戻れないのだろう。

戻るのが怖い、というのも理由の一つだ。大人になるにつれて、自分は一人では生きられないこと、一人で生きていくためには金が必要であることを理解するようになった。真っ白な世界には、金という概念が存在しなかった。だから、真っ白な世界では生きていけないのだ。

いや、厳密に言えば生きてはいけるのだろう。でも、それをする勇気がない。そんな生き方ができる自信がない。私は特別な人間ではなかった。だから、人と同じことをしなければならない。人と異なることを行なって生きていけるのは、選ばれし一握りの人間だけなのである。

この世界で生きていくために必要なものは、一体なんなのだろう。金か? 知識か? 知恵か? それとも、勇気だろうか。もしくは、諦めだろうか。そんな難しいことを考えるために、産まれてきたんだろうか。本当はもっとシンプルな、真っ白な世界で生きることもできるんじゃないだろうか。何故こんなにも生きにくい世界になったんだろうか。一体誰のせいなんだろうか。誰のせいにすれば、私は納得するのだろうか。


mazireal

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。