みんな元気でやっているだろうか。僕はわりかし元気にやっている。夏はとても好きな季節で、夏になると疲れにくくなる。夜になってもまだエネルギーが余っている感じがして、そんな余分の活力を夜の7時くらいのまだ暗くなりきっていない時間に川や海やささやかな池の近くで散歩をして浪費するのはとても素晴らしいことだと思う。5月に隆盛を極めたカラシ菜の大蜂起はいつしか一面の焦茶色にうってかわってしまって、もう「このまま行ったら2m超えるな」なんて空想はやっぱり空想のままだと思い知ったよ。焦茶色の鞘の中にはいくつもの黒い種子が詰まっていて、触ると簡単に弾けて地に落ちる。この黒い種子でマスタードが出来るだなんて信じられないけど、カラシというからには本当なんだろうね。
バナナみたいな大きな房の蕾があったからなんの花が咲くのかずっと気になっていてね。つい最近また見に行ったら見知ったオレンジ色の少し皺がれた花が咲き綻んでいた。そうそう「忘れ草」だ。去年も同じことを思って「忘れ草だけに」ってくだり、やったはずなんだけどな。この調子だときっと来年も同じことを思うんだろう。そして忘れていくんだろう。そういうふうに繰り返していくのだろう。それはたぶんそれほど悪いことではないだろう。
散歩をしていると不思議なことに気づいた。言ってしまえば散歩というのは不思議なことに気づくためにするのだからトートロジーなのかもしれないけれどね。とにかく僕はずっと川沿いを散歩していて、たまに橋がかかっていて、大きめの橋だと当然そこは車が走っている。近くに高校なんかもあるしバス停もあるから存外朝なんかは車通りのない時を見計らって、川の切れ目をうまく飛び越えるみたいに渡ってしまう人が多いんだ。その時気づいたんだよ。そのうちの何人かは川沿いをぼんやり歩いているときはそんなことしていなかったのに、その車通りを渡る時だけお腹の前で、まるで高価な壺でも抱えるみたいにして、そそくさと車通りを渡っていくんだ。最初は本当に何かを抱えているのかと思ったんだけど、どうやらそうではないんだ。
一体なにをしているのだろうね。実を言うと、なにをしているのか僕にはわかってしまったんだよ。いや、別に特別な観察眼を持っているわけではないよ。これを言うと笑われてしまうかもしれないけど、知らないうちに僕自身も車通りを渡る時には必ず両腕で何かを抱えるようにしていたことに気づいただけなんだ。あはは。自分のことなんて自分が一番知らないってのはわりかし本当なのかもね。彼らは運んでいたんだね。ある意味では運ばれてもいたんだね。
僕の記憶が正しければ川沿いにはまた数え切れないほどの忘れ草が咲くはずで、レーテー川もかくやあらん、みたいなこと去年も言った気がするんだけど、また言うんだろうね。地球が太陽の周りを一周するたびにアホになっていくだなんて愉快じゃないか。そういえば坂本慎太郎の新しいアルバムが出て、今年はなんだか去年とは一味違うぞ、って空気が漂ったり漂っていなかったりしていてね。物語のように、昔に戻ろうか、って慎太郎さんが歌ってさ。なんだかちょっとご機嫌な気分になって右足と左足が交互に地面を踏んだりしているよ。