高卒は自業自得なのか?

漫画をあまり読んでおらず、記憶も出来ていないのだが、そんな私でも忘れられないシーンがある。それは、ワンピースのとあるシーンだ。

「ねえ、お父様。ゴミ山の人たちはどうして人間じゃないの? なぜ燃やされてしまうの?」
「こういうことを『自業自得』と言うんだよ。考えてごらん、彼らが貴族に生まれてこなかったのがいけないんじゃないか」
「ほんとだ! 貴族に生まれてくればよかったのにね~! ばかね!」

どうせ覚えておくならもっと感動的な、それこそチョッパーとヒルルクの別れのシーンとか、ナミが助けを求めるシーンだとか、そういうのを覚えていたらよかったのに、私の中で鮮明に覚えているのはいつも、なんでもなく胸糞の悪いこのシーンなのだ。「ゴミ山」という単語を見るに、おそらくサボ関係のストーリーの中のワンシーンだったんではないだろうか。きちんと覚えていないので、間違っていたら申し訳ない。

この言葉は、大きく自分の人生に影響してしまった。確かに、自分の生まれる場所や立場というのは、自分でどうこうすることはできない。だから、この台詞はちゃんちゃらおかしなことを言っているように見える。でも、果たして本当にそうなんだろうか。「自分で変えられたかもしれない現実」については、この言葉の通りになってしまうのではないか。

私は、幼少期からボランティア活動に参加している。当たり前のことであるが、ボランティア活動に金銭は発生しない。だから単純に、お金が無くなっていく。お金を貰うべきではないが、確実に需要があることに時間を取っている。では、私にお金が無いのは何のせいなんだろうか。ボランティア活動のせいだろうか。それを辞めてしまえば、もっと仕事が出来てお金も稼げる。それをしない私は、馬鹿なのだろうか。

それとも、大学に行かないという選択をした私が馬鹿だったのだろうか。大学に行かなかったから、高給の仕事に就けなかったのだろうか。朝夕睡眠を削ってバイト代を貯めなかったから、大学に行けなかったのだろうか。睡眠を削って勉強をしなかったから、奨学金を貰えなかったのだろうか。全て自分の自業自得であり、自分が変えようと思えば変えられた未来なのだろうか。今私が生存に苦しんでいるのは、自業自得なのだろうか。

違う、と、信じたい気持ちはある。でも、本当にそうなのだろうか、という気持ちも同時に膨らむ。確かに、どうにかできたかもしれないのだ。私が死に物狂いで金を貯めていれば、死に物狂いで勉強していれば、死に物狂いで頑張っていれば、現在の私は何か違ったかもしれないのだ。今感じている生きづらさは、自分のまいた種のせいなのだ。

でも、私としては、死に物狂いで生きてきたつもりなのである。その結果が、今の自分なのである。死に物狂いで生きた結果の自分を認めたくないから、過去の自分のせいにする。あのときああしていれば、あのときこうしていれば、と考えていれば、現在の自分は責任を問われないような気がしてくる。今の自分を庇うために、過去の自分を悪者にする。確かにあのときの自分も、必死に生きていたはずなのに。

必死に生きていたはずなのに、幸せになれないのはどうしてなんだろうか。その答えを出せない私は、やっぱり「ばか」なのかもしれない。

mazireal

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