アガパンサスと死者の指

アガパンサスは死者の指の色と形をしている。この夏僕が学んだことといえばそれくらいのことで、それ以外のことは印象に残りこそすれ、やがて消え去っていくものなのだろうと思う。アガパンサスは死者の指である。この事実だけは何年経っても忘れることはできないだろうし、年を経るごとに何度も去来することになるだろう。それは「妄執」と言っていいかもしれない。


アガパンサスが咲き始める季節に祖母が亡くなった。そのことについて特に語ることがたくさんあるわけではない。激しい雨が打ち付ける深夜だった。久しく顔を合わせていなかった従兄弟たちと顔を合わせ、特に打ち解けることもなかった。家の中まで雨の音が押し寄せてくるような大きく重たい水の礫だった。着いた頃にはもう危篤で、意識もなかった。そのことを残念に思う気持ちも無くはないが、数年前に心臓の手術を最後まで渋り続け、そんなにしてまで長生きしたくも無い、と言っていた祖母を思うとようやくその時が来たんだな、と安心する気持ちの方が勝った。


息を吸うのすら難儀そうで、呼吸のたびに顔が動いてしまう。母に聞いたのだが朝に体調を持ち崩して「いよいよだな」と予感があったそうだ。昼間はまだ雨が降っていなかったからベッドを居間に移した。カーテンを開けるとそこから好きだった庭が見える。たくさんの花や木々が芽吹いている。まだ幼かった頃の記憶では祖母はよくそこで花を見ていたり、野良猫に餌をやったりしていた。今は夜の帷と水の中にいるような雨の膜に遮られて見ることはできない。やがて呼吸が弱くなり、最後はもう息を吸うのも面倒だという具合だった。


明くる朝に近所を散歩してアガパンサスが花期を迎えていることを知った。死者の指先はあのように鮮やかな紫をしているわけではないし、アガパンサスは人の指のような形をしているわけでもない。同じくらいに咲いていた忍冬の方がよほど指のような形をしている。けれど記憶というのは不思議なものでどれだけ画像を見比べても、植物学的知識を蓄えても僕の中でアガパンサスは死者の指以外の何物でもなく、その繋がりは知識や客観的視点を総動員しても断ち切れる気配すらない。


古い畳の上に人間の指がころりと転がっていて悲鳴をあげる。周りの人間が「それは指ではなくかりんとうだ」と笑っても、モノの持つ実体感は消えない。背筋を走る怖気は簡単には無くならない。最近、記憶とはどうやらそういうものであるらしいと気づいた。記憶はどちらかというと知識よりもモノに近い。手触りがあり色味があり味わいがありにおいがある。それは全てが全て喜ばしいものでは当然ないだろう。戦争や犯罪の記憶がいつまでも頭の中を文字通り駆け巡ることを僕たちは知識として知っている。ただそのモノ特有の実体感を他者が理解し共有することはできない。おそらく本質的にできない。


まだ若かった頃「知識を蓄えなさい」としきりに言われていたことを思い出す。直接誰かに言われたことがなくとも、教育や周りとの関係はいつも知識を蓄えることを強いてきた。そのことがとりわけ間違っていたとは思わないし、若い時分は好奇心に任せて色々なことに一歩踏み入れていくことがとても自然だった。もちろん踏み入れるのは山のように積み重なった英単語の知識ではなく、いつも自分の好きな領域だったけれど。


最近記憶もまた蓄えていくものなのだろうな、と感じるようになった。アガパンサスが死者の指であることは知識とは何の関係もない。記憶は嫌でも溜まってしまうものとも言えるが、僕の経験上、何かをより詳しくより正確に知りたいと願う心は時に記憶に対して不適合の烙印を押しかねない。さらに言えば記憶は良いことばかりではない、実はさっきから10代の頃にレイプされたことのある仲の良かった女性が頭から離れない。けどさ。良いことばかりではないから。僕たちはたくさん記憶を集めて、そして死んでいこう。そう思う。


ukari

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