美容院が停電したのに、誰も声を上げなかった。数秒後、何事も無かったかのように電気が点いて、みんなは停電したことにすら気付いていないようなふりで、俯いていた。私はぞっとした。人間はもう、そんなとこまで来てしまったのか。もちろんみんな、美容院が停電したことに気付いていた。私も含め、そこにいた全ての人は、店内が一部真っ暗になったことを知っていた。なのに、私も含め、そこにいた全ての人は声を上げなかった。まるで、廃墟の中にいるような気がした。人々はもう、全てのことが怖く、それゆえにもう何も怖くないのだ。
日本は平和な国である。だから、電気が消えても、まるで何も気にしていないような顔で、スマホを見つめ続けることができる。人々は、頭の中で、すぐに電気が復旧すると信じて疑わない。
山奥の山荘を舞台にしたミステリ小説であれば、必ずそこは吹雪や大雨に見舞われ、突然電気が消える。読んでいる人は大抵、電気が消えた瞬間に、「あ、誰か死ぬぞ」と直感的に予想する。そして次のページをめくれば、大抵いつも誰か死んでいる。『電気が消える』という出来事が死亡フラグであることを知っている。なのに、それは現実世界に結び付いていかない。
どうしてあの時、美容院で停電が起こった時、誰も声を上げなかったのだろう。美容師さんは鋏を動かす手を止めず、人々はされるがままに髪を切られ続けた。電気が消える、という死亡フラグが立ち、刃物を持った人間が背後に立っているというのにも関わらず、ひたすらスマホを眺め続けた。
もちろん、店内が何も見えないくらい真っ暗になったわけではない。その美容院は大きなショッピングモールの中にあり、停電したのは美容院の中だけで、外の世界から煌々と明るい光が差し込んでいた。それにしても、誰も慌てふためかないのは奇妙に見えた。私の目には、人々が何かを怖がって声を上げないかのように見えた。少し出かかった言葉を、喉に押し込めたような気がしたのだ。人は、そして私は、一体何を怖がったのだろう。
私たちは多分、その場にいた人間すべてが怖かったのだ。ばちんと電気が消え、一人声を上げてしまったとして、「こんなことで声を出すのか」と思われたくなかったのだ。美容院という、なんとなく誰もが背伸びしたような雰囲気の場所で、「ダサい」と思われるのが嫌だったのだ。きっと情けない声を漏らし、何か起こるかもしれないと体をこわばらせ、結局何も起こらず、声を上げなかった周囲の人から最終的に失笑を喰らうのが怖かったのだ。なぜこんなことを怖がっているのか。驚いたなら、驚いたと言えばいいじゃないか。でも人はもう、そんなことはしない。人はもう、「怖い」と言葉にすることすら怖いのだ。人が本当に怖いのは、いつも隣にいる誰かだ。隣にいる誰かから自分を守るために、何も怖くないふりをしている。
「怖い」とは何なのだろうか。私はこれまで、「日常に潜む狂いへの感情」を「怖い」なのだと思っていた。でも、そうじゃない。もうすでに、人は日常自体を怖がっている。そして、日常というありふれたものを怖がる、という狂いも怖がっている。私たちは、いますでに、恐怖に支配されて生きているのだ。
mazireal