COMPLEXの「恋をとめないで」を久しぶりにyoutubeで聴いていて、突き動かされるものがあり、詩作の一つでもしようと思ったのだが、フレーズが幾つか出てきただけで進まない。浮かび上がり、書き留めた「二十歳の狂気・無敵・花火」などの詩句はインパクトがあり、若さゆえの情熱、爆発する感情、幸せへと向かう強く、しかし無軌道な意思という類の情念、観念をよく表している。だがそれを具体的な情景なり描写なりに組み込もうとするとなぜが上手くいかないのだ。ふとそこで自分の二十代を振り返り、COMPLEXの二人、布袋と吉川晃司に照らし合わせて、等身大の自分を考えてみる。すると僕の二十代とは嘲笑と不遜、そして世の中に背を向けることの連続で、決して布袋や吉川晃司のように生身の体で何かに挑んだことがないのだと、気づいてしまう。これは極端だが、屈従的な事実の一つで、僕自身の二十代には「二十歳の狂気」や無敵とか、一瞬で消えいく美しい情熱の比喩としての「花火」など恐らくほぼ存在しなかったのだ。それか未だ自分の体に内在されているままだ。それゆえ僕は「二十歳の狂気」というパワーワード、キラーフレーズが出てきても、それを構築し、よりよい形でまとめることが出来ないのだと気付いてしまう。これはとても悔しいことだ。自分が感動した、揺さぶられたコンテンツに刺激を受けて何かを作ろう、書こうにも自分にはそれを追体験するための、生身の経験がない、ゆえに書けない。二十歳の狂気はまだ僕の胸で燻っているだけで、目覚めを待っているかもしれない。叫ぶ日を今か今かと待ちわびているかもしれない。しかし表出される時、その姿は最早二十歳の狂気を装った、「四十代の足掻き、雄叫び」でしかないかもしれない。その事実に気づかされ、僕は若い頃無敵にも、狂気にも至り得なかった自分を振り返り、花火が永遠に繰り返される何かの象徴として、今年も消え行くのを見守っていくだけなのだ。もしこのまま終わってしまうとするならば
keisei
「あれ?あの詩どこだっけ?」と探していて見つけて現在に至ります。
「生身の経験がない、ゆえに書けない」
この言葉を重く感じました。書く、と、読む、の隔たりを、強く感じました。