ふたたび、声をあげる

「社会に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、孤独に暮らせ。それが嫌なら──」

攻殻機動隊 Stand Alone Complex 第一話

ここ数年、書くことをやめていた。完全にやめたわけではない。時たまテキストエディタを開いては、公開するあてのない文章を書いていた。ただ、そうして書いた文章をオンラインで発信することをやめていた。

昔から文章を書くのが好きだった。だから数年前まではブログを書き、トレンドに便乗してNoteを始め、毎日のようにTwitterに投稿していた。だが、気づいた時にはすべてやめていた。URLを付与され、オンラインに公開された文章。自分が書いたそれらの文章を読んで、これは自分が書きたいから書いているのか、それともプラットフォームに書かされているのか、確信が持てなくなった。

だから僕は、冒頭で引用した攻殻機動隊の台詞のように──あるいはその元ネタである晩年のサリンジャーのように──耳と目を閉じ、孤独な人間になろうと考えた。ネットの喧騒から距離を置き、本を読み、映画を観て、音楽を聴いていた。自分だけの世界に浸っていた。だが、今の僕はこうして再びオンラインに文章を投稿している。それはなぜか。

書きたかったからだ。無性に、どうしようもなく、書きたくなったからだ。誰に読まれることも想定していない単なる言葉の羅列ではなく、誰かに届くことを前提とした文章をもう一度書いてみたくなった。そして、それにぴったりの場所と縁あって出会うことができた。だからもう一度、書いてみようと思った。

本を読み、音楽を聴き、映画を観て日々をすごす。そうやって他人が心血を注いだ創作物に触れ続けると、頭の中で言葉がぐるぐる回り始める。その状態がしばらく続くと、頭の中の言葉をどこかに吐き出したくなる瞬間が訪れる。ここ数年、僕はその瞬間をひたすら無視しつづけてきた。書きたいという欲望はつのる一方だったが、文章をオンラインで公開することには拭いがたい抵抗感があった。TwitterやNote、はてなブログ、Instagram、Youtube、Pinterest、Facebook、Tiktok──そういったプラットフォームに対する落胆とネットユーザー全体への諦念が、抵抗感の正体だった。

だが、言葉が情報であり、情報が社会のコンポーネントである以上、文章を書くという行為は社会的な営為である。読み手を想定しない文章は、たんなる死文でしかなく、情報としての機能すら有していない。この数年で僕はそんな死文を量産し続けてきた。書きたかったから書いた。だが、それはキーボードに文字を打ち込んで言葉の羅列をつくるという物理的な行為でしかなく、ことば本来の意味において「書いて」いなかった。行為であって営為ではなかった。書きたいという欲望と、書いたものを公開したくないという抵抗感。その狭間で悶々とした日々をすごした。

世の中には欲求ではなく欲望のレベルで、書かずにいられない体質の人が一定数存在する。それを裏づける実験もデータもないのだけれど、作家や評論家のインタビューを読むかぎり、あながち間違っていないような気がする。

どの著作だったか忘れたが、寺山修司が言っていた。「人は誰しもが詩人だが、大人になると詩人であることをやめてしまう」──大人になっても詩人であることをやめなかった人たちが、欲望のレベルで書かずにいられないタイプの人間に分類されるのだろう。かくいう僕もその一人だ。

書きたいという欲求と、それをオンラインで公開することへの抵抗感。その止揚にいたった今、言葉とプラットフォームについて再考してみようと思う。

プラットフォームが支配する

オスカーを総なめにした映画『バードマンあるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡』のなかで、エマ・ストーン演じるティーンエイジャーの娘が、マイケル・キートン演じる父親に向かって言い放つ──「パパはTwitterもFacebookのアカウントも持ってない。そんなの社会に存在しないのと同じじゃない」

『バードマン』が公開されたのは2014年。それから8年が経った今、SNSは社会のインフラとして定着し、僕たちの日常と同化した。TwitterやInstagram、Youtube、Netflix、Note──こういった大きなプラットフォームのアカウントを持っていない人は、ネットという社会から孤立する。だからみんな、プラットフォームを利用する。

アイビーリーグを卒業したシリコンバレーの連中は、大金を稼いで、第二のイーロン・マスクを目指すことに余念がない。基本無料の大手プラットフォームが巨額の利益をあげるには、まず利用者を増やすしかない。利用者が増えたら次の段階に移る。利用者がプラットフォームを使う頻度を上げ、滞在時間を増やすのだ。ユーザーの1日の可処分時間24時間のうち、どれだけ多くを奪えるかが収益アップにつながるからだ。

いかに利益をあげるかを追究しつづけた結果、プラットフォームのアップデートは「改良する」というお題目のもと、利用者のドーパミンをどれだけ多く分泌させられるか、というゲームにすり替わった。あるドキュメンタリー映画のなかで、Pinterestの創業者の一人が苦笑まじりに述懐する。「自分で開発したPinterestにすっかりハマった。子どもの面倒を見ながら、妻の話を聴きながら、運転しながら、夢中で見ていた。目が離せなかったよ。自分で開発したものだから理性ではわかってたんだ。けどやめられなかった」──この創業者は、自分の戦略が間違っていなかったことと、それがアプリに正しく実装されていることを皮肉にも身をもって証明したのだ。

ヒトの認知を研究しているアメリカの研究者が、スマホの通知のことを次のように表現した──「これはもはやスロットマシンだ」と。実際、人間の注意力というのはスマホの通知音1つ、わずか1秒たらずでいとも簡単に失われるという実験結果がある。スマホの通知がドーパミンを分泌するのだという。通知音を聞いた段階では、その内容まではわからない。ツイートがリツイートされたのかもしれないし、Amazonの発送通知かもしれないし、友だちからのLINEかもしれない。実際に確認するまで、なにが出てくるかわからない。そのワクワク感がドーパミンを分泌させる。だからスロットマシンだというわけである。

これまたアメリカの別の研究者が、ドーパミンについて興味深い実験を行った。実験の概要はこうだ。ボタンを押すと電気が流れるボタンを用意する。マウスの脳に電極をぶっ刺し、人為的にドーパミンを分泌させられる状態にする。ケージの中にボタンとともに放り込まれたマウスは、最初のうちはボタンを押すとすぐに逃げ出し、ボタンに近づこうとしない。だが、ボタンを押したタイミングで脳にぶっ刺した電極によって人為的にドーパミンを分泌させ続けると、マウスは自ら進んでボタンを押すようになる。最初は嫌がっていた電流の痛みよりも、ドーパミンの分泌による快感のほうを選ぶようになるのだ。

「いかにしてドーパミンを分泌させるか」を至上命題としているアプリは言わずもがな、その通知さえもドーパミンを分泌させる。ドーパミンはよく言われるように脳内麻薬であり中毒性がある。とどのつまり、プラットフォームのアプリが入ったスマホは、人体への影響という点で考えるなら、ラーメンとチャーハンの炭水化物ダブルセットよりも厄介な代物ということになる。先のスロットマシンの例えを延長するなら、スロットレバーを押して脳内麻薬を分泌させ続けている状態と言える。

iPhoneのロック画面に通知が浮かぶ。「あなたのツイートがリツイートされました」──ある時ふと、その通知を見た僕は、レバーを引き続けるマウスのことを思い出した。自らレバーを引き続けて快楽に耽溺するマウス。とっさに頭に浮かんだその情景には、懸命に走ってもまったく前進しない、回し車を転がすマウスを見たときにも似た、えも言われぬ哀れさを感じた。その次の日から、Twitterのアプリを消し、Noteの記事を削除した。このころから、プラットフォーム全般に対して抵抗感を抱き始めた。

僕が抵抗を覚えたのはSNSだけではない。検索エンジンというプラットフォームもまた同じだった。プラットフォームの多様化にともない、幾何級数的に増加するコンテンツ。それらを網羅し、検索ワードとともに検索結果を表示する検索エンジン。その検索エンジンですらGoogleの独壇場になっていて、Yahooの検索エンジンの中身がGoogleに変わったことで独占市場は決定的となった。ならばGoogleの検索アルゴリズムが優秀なのかというとさにあらず。

入力した検索ワードに対し、レスポンスされる検索結果のページ数は数百ページ。そのうち実際に目を通すのは最初の1ページのみ。リスティング広告の統計データを見れば明らかなように、検索結果1ページ目と2ページ目の閲覧数には雲泥の差がある。ネット上にある膨大なコンテンツの大半は、多くの人にとって存在しないのと同義だ。1ページ目に掲載されているのは、本当に知りたかった情報ではなく、「いかがだったでしょうか」で結文するアフィリエイト目的の記事ばかり。いつの間にか、Googleで検索しても本当に知りたい情報を求めていると、ほとんどWikipediaばかり閲覧している自分に気がついた。

そうして少しずつプラットフォームという枠組みから距離を取るようになった。そうこうしているうちに、オーストラリアのクライストチャーチで銃の乱射事件が起こり、Qアノンが台頭し、トランプが連邦議会議事堂の襲撃を教唆した。そして今でもTwitterでは日常的に炎上が起きている。いずれのできごとも、すべてはプラットフォームに起因している。僕はますますプラットフォームから距離を置き、外界と自己を遮断した。より良い未来を嘱望され、「Web2.0」ともてはやされていたオンラインのこれが現状か、とひどく落胆した。

プラットフォームにも落胆したが、それを利用する大衆(マス)にも諦観した。「水は低きに流れる」の言葉どおり、大衆(マス)としての人間は、有史以来さほど変わっていないのではないか。そういう境地に達するほど諦観した。日常的に起こる炎上さわぎ。古代ローマのコロッセオよろしく、その炎上さわぎを外郭から観戦して炎上を煽る人たち。一億総評論家を生んだレビューサイト。そのレビューを見て、あらかじめバイアスがかかった状態でお店に行ったり、モノを買ったり映画を観たりして、自分が参考にしたのと似たようなレビューを無自覚のうちに投稿する人たち。匿名であることを笠に着て、心ない言葉の応酬が繰り広げられるネット掲示板。アテンション・エコノミー、フィルターバブル、レコメンド、フェイクニュース、アルゴリズム、エトセトラ、エトセトラ…………そういったものすべてに対して、気づけば嫌悪感を抱いていた。

僕はSF小説好きでテクノロジー礼賛主義者のアーリーアダプターを自認しているのだけれど、近ごろ話題にのぼることの多い「メタバース」や「NFT」が普及し、5G通信が全国で実現してトラフィックが激増し、その結果、ますます動画がコンテンツの主体となっていく近未来を手放しで喜ぶことができない。プラットフォームやシステムといった外的要素がいくらアップデートされても、マスとしての大衆のほうがリテラシーをアップデートしない限り、本当の意味で世界はより良くならないのではないかと思う。

政治的にニュートラルを標榜していたアノニマスが政治に接近して落ち目になった今、どこか別のハクティビスト集団が現れて、全世界でインターネットを1週間遮断させるテロを起こせば、新たな視座が得られるのではないか。そんな不穏な妄想をしてしまう。

社会とことば

小学生のころ、通っていた塾の先生がもっともらしい顔つきで言っていた。「『わかる』とは、切り分けることです。区別して、切り分けて、そうやって理解していくから『分かる』と書くのです」。授業の内容はさっぱり覚えていないのだけど、『わかる』の一説と先生の体臭が鼻についたことだけは今でも覚えている。

言葉は社会を切り取るための道具である。読み手を想定しない文章には、意味はあっても価値はない。文章の書き方指南のハウツー本で、文章では順番が大切と教えられるのは、文章を読む人は並べられた言葉の順に、その言葉に注意を向けるからだ。書かれた言葉を文章として読むとき、人は文字を目で追いながら一つひとつの言葉に注意を向け、それらを瞬間的に頭に想起し、総体として意味を理解し、社会を切り取る。言葉と社会は不可分の関係にある。言葉の機能に社会性が内包されているのか、それとも社会というシステムそのものに、あらかじめ言葉が組み込まれているのか。卵が先かニワトリが先か。いずれにせよ、人は狩猟採集から稲作に移行し、集団という社会性を持ったときから言葉を積極的に活用し始めた。言葉は社会とともに生まれ、社会とともに今も生きている。社会なくして言葉は存在しなかったし、言葉なくして社会は存在しなかった。

人間の脳には元来、言語に特化した部位というものは備わっていなかった。今こうして僕たちが言葉を当たり前のように使うことができるのは、進化の過程で、もともと脳にあった言語とはまったく関係のない機能の部位を、言葉を使うために作り変えたからだ。もともとはジャングルの密林で獲物を見つけるために使っていた脳の機能を、言語を扱うという目的に従属させた。もともと脳に備わっていた部位を使って、ありあわせのものを使って言語機能を獲得した。なぜヒトは、そうまでして言葉を扱うことを希求したのか。

その理由を探る補助線として「感情」を挙げたい。言語については今なお多くの研究がなされており、これから述べることはまったくの私見にすぎないことを断っておく。僕はつねづね言葉がもつ機能のうち、もっとも大きなウェイトを占めるのは「感情」を伝えることだと思っている。

ヒトが狩猟採集民族だった時代、マンモスのような大きな獲物を仕留めるためには連携プレイが必要となる。そのためには現場レベルでの臨機応変な意思疎通が不可欠であり、そうした業務上の必要性から言葉が生まれた。言語の機能的側面を考えれば、そう考えるのが妥当だろう。

だが、文系オタクな僕はどうしても考えてしまう。妄想してしまう。かがり火を取り囲んで、その日に捕れた獲物を夕餉に、落ち着いた雰囲気にひたる古代人たち。食欲が満たされ、1日の疲労から思わずあくびがこぼれる。誰かがそれを見て「もう寝たら? 疲れたっしょ?」と目顔で伝える。べつの一人が身振り手振りで寝床を示す。あくびをした張本人は、ゆっくりとまばたきして謝意を伝える。そうして日々を過ごしてきた数人の仲間たちが、ひときわ大きな獲物を仕留められた日に祝祭をあげる。そのときの喜びを音楽に乗せて踊ることで表現する。音楽は理屈ぬきで感情に直接的に訴えかける。獲物をしとめた祝祭的な気分が音楽によって増幅され、思わず口から声が漏れ出る。そのときの、意味をなさない感情のほとばしりが、数百年後に言葉となったのではないか。

あるいは、子どもを殺された母親が、殺した相手に暴力以外の手段で、おのれの感情をぶちまけるために喚き散らす。それは激情が音となって口からこぼれただけで、言語としてはまったく意味をなしていない。だが、狂おしいほどの心の痛みが、口から漏れ出る音として勝手に出てきてしまう。

あるいは、一夫多妻制が当たり前だった狩猟採集時代に、めずらしく心から愛し合っている一対の夫婦がいるとする。彼/彼女は肉体的な接触以外の手段で、みずからの思いの丈を、ありったけの愛情を相手に伝えようとする。意味をなさない音が口からこぼれ落ちる。その音に意味はないが、2人にはお互いの気持ちが手に取るようにわかっている。口から漏れ出た音は、まぎれもなく彼/彼女らの感情の結晶だった。その結晶が、時の試練を経て体系化され、数百年後には言語となった。

いつの時代もヒトを突き動かすのはロジックではなく感情である。それは文明的に発展した現代も、未発達であった古代も変わらないのではないか。だとすると、言葉はもともと感情の発露によって生まれ、言語として体系化されたのちは感情を伝える媒介者となったのではないか。すべての言葉には何らかの感情が宿っているのではないか。我ながらロマンティシズムにすぎると思うこの妄想について考えるたびに『虐殺器官』の一節を思いだす。

「きみはこう思うことはないか、言葉に意味なんてない、とね」「好きだの嫌いだの、最初にそう言い出したのは誰なんだろうね。いまわれわれが話しているこのややこしいやり取りにしても、そんなシンプルな感情を、えらく遠回しに表現しているにすぎないんじゃないか。美味しいとか、不快だとか、そういう原始的な感情を」

伊藤計劃『虐殺器官』

『虐殺器官』は言語と社会について、徹底的にエクストラポレーションしてみせたSF(サイエンスフィクション)であり、稀代のSF(スペキュレイティブ・フィクション)だ。その著者である伊藤計劃もまた、作家デビュー以前から膨大な量の文章を書き、オンラインで公開していた。伊藤計劃もまた「欲求ではなく欲望のレベルで書かずにいられない体質の人」であった。

社会的性質を帯びる「欲求」ではなく、生理的衝動としての「欲望」レベルで書かずにいられない人は一定数存在する。彼/彼女らは日常的に言葉に触れている。そしてある時点で衝動的に書きたくなる。書かずにいられなくなる。そして書いたらまた言葉に触れる。その繰り返しのなかで、日々をすごす。

僕たちの住む世界には言葉が、文字があふれている。憲法も法律も、会社の報告書も、電車のつり革広告も、アプリを構成するコードも文字に還元される。私たちの身体を構成するDNAも、ATCGのたった4つの文字列に還元される。文字は言葉となって意味を持ち、感情を宿す。言葉と社会は密接不可分の関係であり、社会を構成するヒトは感情で動く。ヒト、社会、言葉──文明における三位一体。

すべての言葉が感情を伝える媒介なのだとすれば、僕のような「書かずにいられない体質の人」というのは、あふれ出てくる感情を言葉として外界に排出し、そうすることで自己のバランスを保っているのではないか。今こうして書いている文章も、とどのつまり僕の感情のほとばしりでしかないのではないか。言葉と社会について考えるほど、自分の書いた文章をオンラインで公開することが、自己の押し売りに思えてならなかった。

ふたたび、声をあげる

アニメのTシャツを着たり、トートバックに好きなバンドのバッチをつけたり、好きな芸能人をスマホの壁紙にするのと同じような、自己の押し売り。自分が大切に思っているものが、他人にとっても大切なはずだという勘違いした啓蒙主義。衝動的に書きたくなって書いた文章をオンラインで公開することは、それと同じような気がしてならなかった。けれど今、僕はこうして文章を書いている。書きたいから書いた文章を、想定した読者に向けて書いている。これはまぎれもない自己の押し売りであり、僕にとって大切なものが誰かにとって何らかの価値をもつはずだという期待にもとづいた、手前勝手な啓蒙主義にほかならない。

自分にとって大切なものが、他人にとって大切だとはかぎらない。多くの場合、他人にとっては興味の埒外でしかない。ぶっちゃけ、どうでもいい。それが他人の本音だ。それを充分わきまえたうえで、僕はもう一度書きたいと思った。読み手のない私文(あるいは死文)を書くのではなく、こうして他人を想定したうえで、もう一度書いてみたいと思った。

書きたいという欲望レベルの衝動に駆られて書いた文章は、おのれの感情の押し売りにほかならない。それは地方都市の繁華街で、酔客を相手に演奏をつづける路上ライブのパフォーマンスと何らかわらない。けど、べつにそれでいい。そう割り切れるだけの無神経さと楽天的なマインドセットが、歳を重ねるうちに身についた。プラットフォームへの諦念と書きたいという欲求のせめぎあいは、こうして今、文章を書くことで止揚にいたった。

結局、僕には書くことしかできない。だから僕はこれからも書き続けることにする。僕にはそれしかできないから。

「善と悪、男と女、その間に軋轢が生まれるのは、何の理由もなく他者を傷つけるような人間がいるせいだ。そういうやつらを死ぬほど痛めつけてやりたい、俺を突き動かすのはそういう思いだ。だから俺はマイクに向かって叫ぶ。俺にはそれしかできないから」

カート・コバーン/マイケル・アゼラッド著 『Come as You Are: The Story of Nirvana』

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