「これまでの人生のほとんどを空想の中で生きてきた」
『euphoria Season2』レクシー・ハワード
最近、『機龍警察』を読み始めた。『機龍警察』は早川書房から刊行されている日本の警察小説シリーズで、ジャンルとしては冒険小説になる。現在、長編が6冊、短編集が1冊ある。僕は3人以上の人から「これ面白いよ」と言われたものは迷わず手に取るようにしている。『機龍警察』もその1つだった。シリーズ2作目を読み始めたときにはもう、ページをめくる手が止まらなかった。息もつかせぬ緊張感、命の駆け引きによるスリル、意表を突きまくる展開にページをめくり続けた。お盆に帰省した僕は、新大阪駅のドトールコーヒーで帰りの新幹線を待つ間、注文したコーヒーを飲むのも忘れて2作目を一気に読み終えた。次の日、迷わずジュンク堂に行って、シリーズ全巻をまとめ買いした。
3作目以降も、一気に読んだ。もう止まらなかった。なにも手につかないほど夢中になった。驚天動地のストーリー展開のあまり読書中に「うぉ……!」と呻いたのも、文字どおり寝食を忘れて読書したのも、本当に久しぶりだった。こんなにハマって小説をイッキ読みしたのは『三体』以来だった。あまりにもおもしろすぎる小説を読むと、もちろんそれを書いた作家さんのことが気になり始める。当然のなりゆきで、『機龍警察』の著者である月村了衛さんのインタビューを読んだ。そのなかで、胸にささった言葉があった。
「良質な物語は生きる糧になるんですよ」
月村了衛
この主張は肌感覚的にすごく腑に落ちた。冒頭で引用したセリフ──アメリカで社会現象化したHBOのドラマシリーズ『euphoria』のシーズン2で、自己の殻を破り、物語を書くことで自分を表現する決意をしたレクシー・ハワードが言うセリフ。僕はまったくもってこのセリフを地で行くタイプの人間で、物語の世界に逃避しつづけてきた。思い出を振り返ってみても、どこかでなにかをしたという実体験よりも、あの小説のあのシーンの情景とか、あの映画のあのシーンといった空想上の風景のほうがすぐに思い浮かぶ。そういう人間だからこそ、良質な物語が生きる糧になるというのはすごく共感できた。
糧になるというのは「これを読むまでは死ねない」というオタク的な情熱だけでなく、空想上での体験が自己を形成するという実際的な作用も含まれる。心が折れたとき、ふたたび立ち上がる気力をくれたのは、僕にとってはフィクション上の人物だったし、自分の体験したことに新たな視座をもたらしてくれたのも小説や映画といった物語だった。
実生活上でお世話になった人や、影響を受けたメンターのような方々もいる。だが、そういった人びとと同じくらい、僕はフィクションで出会った人物たちからも影響を受けている。そういった影響の累積が、現在の僕を形づくっている。その感覚はずっと前からあった。
『ハウス・オブ・カード』のフランク・アンダーウッド、ダニエル・クレイグ版のジェームズ・ボンド、『マルタの鷹』のサム・スペード、『グッドフェローズ』のトミー、『カリートの道』のカリート・ブリガンデ、『銀河英雄伝説』のオスカー・フォン・ロイエンタール、『メタルギアソリッド』のリキッド・スネーク/ビッグボス、『ゲーム・オブ・スローンズ』のアーリア・スターク、『ピーキー・ブラインダーズ』のトミー・シェルビー、グラナダ版と原作のシャーロック・ホームズ、『アラビアのロレンス』のトーマス・ロレンス、『パト2』の後藤隊長、そして、僕にとっての中学時代からのヒーロー『トランスポーター』のフランク・マーティン──影響を受けたと自覚している人物だけでも、挙げればきりがない。
彼らは空想上の存在にすぎない。僕は彼らと何らかの会話をしたわけでも、教えを受けたわけでもない。僕にあるのは、想像の世界で彼らと同じ体験を共有したという疑似体験だけだ。
「本を読む者は、死ぬまでに何千もの人生を生きることができる。
ジョージ・RR・マーティン
読書をしない者は、たった一つの人生しか生きられない」
物語に触れることは、自分以外の誰かの人生を疑似体験することだ。小説を読んだり映画を観たりしているとき、僕たちは空想の世界の人物とともに行動し、同じ体験を共有し、感情を揺り動かされ、同じ時間を生きている。それらはすべて疑似体験にすぎないが、立派な経験であることに変わりはない。読書中の脳をモニタリングした実験では、物語の中で苦痛や恐怖を感じたとき、僕たちの脳はそれらを実際に感じたときと同じ反応を示したという。
疑似体験であっても体験であることに変わりはない。実体験でも疑似体験でも、経験としての質に差異はない。そうであるならば、想像の世界で体験した出来事は、僕たちに確かな影響を及ぼしているはずだ。そういった影響を知らずしらずのうちに受け続け、自分自身の糧として吸収する。
もちろん僕たちは、書店の入り口に平積みされているような、トレンドに便乗しただけの薄っぺらいハウツー本を読む人たちとは違って、意識の高い目的をもって読書したり映画鑑賞したりしているわけではない。なにかを学ぼうと、吸収しようという高尚かつ明確な目的意識をもって物語に触れているわけではない。だが、僕たちのような物語に取り憑かれた人種は、もっとおもしろい物語を求めて、次々と他の作品に手をのばす。そして、そこでまた新たな人物たちと出会い、新たな疑似体験を経て、自己の糧とする。
映画や小説に限らず、すべての娯楽(エンターテイメント)は、身も蓋もない言い方をすれば「暇つぶし」である。余暇の時間を使う「暇つぶし」でしかなく、その暇つぶしの手段として空想の世界に逃げこむという行為は、現実逃避いがいの何ものでもない。授業中や仕事中に、無聊をかこって妄想するのと根源的には同じことだ。僕のような空想の世界に生きる内向的な人間は、現実逃避ばかりしている人間とそしられても反論できない。だけど、僕はこう思う──現実逃避してなにが悪いのか。
べつに居直っているわけじゃない。だが、自分の実生活を顧みてほしい。日々の現実に心底満足している人なんてこの世にいないはずだ。もしそんな人がいるとしたら、おそらく生きているという実感をまったく欠いた人だけだろう。人生はいつだって容赦なく、全力全開のハードモードだし、運命はいつだってロシア文学的な皮肉を差し込んでくるし、自然という超越的存在は人類の存亡には無関心だ。
だが、多少の抵抗や逆境といった負荷がないと、生きている実感が得られないというのもまた事実である。もしみんなが現実に満足していれば文学もロックも映画も生まれなかった。創作する原動力は現実世界への不満であり、主流派に対するカウンターカルチャーだ。現実に満足している人間には、ハリー・ポッターのような記念碑的な物語を書けるわけがない。
時々、こんな妄想をすることがある。もし音楽も小説も映画も存在しない世界に生まれていたら、そこはどんな世界なんだろうかと。もしそんな世界が存在するとしたら、そこでの生活はソースのないパスタを食べるような味気なさで窒息するだろう。もし世界から音楽と小説と映画がなくなったら、そんな世界に生きる価値はない。少なくとも、僕にとっての生きる価値は。
だから僕は今日も本を読み、映画を観て、空想の世界に逃げこむ。堂々と現実逃避するべく、可処分時間の大半を空想の世界に費やす。物語の世界にどっぷり入り込み、全力で楽しむ。そうすることで、物語は僕にとって生きる糧となる。まったく無自覚のうちに、物語のキャラクターが、そこでの経験が、僕の血肉となって未来の僕を形づくる。
P.S.
「あぁ、だりぃ、暇」という人が周りにいたら、有無を言わさず『機龍警察』を勧めましょう。マジで、ガチで、冗談ぬきでクソおもしろいです。これは広告ではなく、歴然たる布教活動です。読みましょう。読んでください。時間がマッハで溶けていくこと請け合います。