たった1つの冴えたやりかた──ヘヴィメタル礼賛主義

ヘヴィメタルが好きだ。超絶技巧のギターリフが脳髄を青白く灼きあげ、怒涛のブラストビートがアドレナリンを誘発させ、激情に任せた高音シャウトとデスボイスがおのれの憤怒と同化する。ヘヴィメタルがつむぐメッセージはきわめてシンプルだ。「殺せ」──刃物のような危うさをはらんだ臨済録の有名な一節、「逢著すればすなわち殺せ」と本質的には同じなのだ。異論反論の余地はおおいにある。それは認める。だが、僕にとってのヘヴィメタルとは「殺意」の結晶にほかならない。

愛こそが正義である。困難を前にして人を突き動かす原動力は、愛をおいてほかにない──これが一般的な社会通念だ。けど、僕たちは経験から知っている。それは理想論であって、日々の生活──現実を生きるうえでクソの役にも立たないことを。いつの時代でも、人間を最後に奮い立たせるのは「怒り」だ。愛は困難な事業を達成する動機たり得るが、原動力たり得ない。愛によって動機づけられた行為を完遂するエネルギーを生むのは怒りだけなのだ。

怒りは、食うか食われるかの狩猟採集時代から人間に備わった自己防衛システムだ。認知論の研究者たちが言う「闘争/逃走本能」。その本質は正当防衛としての「殺意」である。さまざまな形・種類の怒りがあれど、怒りをくすぶらせ続けると、最終的には殺意へ収斂する。殺意は他人に向けて振り回せば一線を踏み外すが、自分自身と己を取り巻く状況に対して振り向ければ逆境を粉砕する原動力となる。

とはいえ、文化的で平穏な日々をすごす現代の僕たちにとって、殺意を抱くほどの怒り、あるいは殺意そのものを抱くというのは、あまりにも非日常にすぎる。かつて野生の食性だったネコが、人間に飼われ続けた結果すっかり牙を抜かれ、イエネコと化したように。そんな僕たちに「殺意」の塊を注入し、エネルギーを充填する賦活剤──それがヘヴィメタルなのだ。

海外のとある研究者が、音楽というのは何らかの感情を脳に抱かせるある種の言語である、というおもしろい仮説を提唱している。思い返してみれば、僕たちはその日の気分によって聴く音楽を選んでいる。休日にリラックスしたいときにはルドヴィコ・エイナウディのピアノが聴きたくなるし、仕事が終わった開放感に浸りたいときはサザンオールスターズあたりの明るいポップスが聴きたくなる。クラブの喧騒に身を置けばアヴィーチーやアラン・ウォーカーあたりのEDMが聴きたくなるし、感傷的な気分のときには、ティーンエイジに聴いていた音楽を聴きたくなる。そのロジックでいくと、僕をふくめたヘヴィメタルリスナー(メタルヘッズ)たちは「殺意」のエネルギーを日常的に欲しているということになるのではないか。

爆音轟音に乗せた「殺意」というエネルギーの奔流で脳内を撹拌する。そうして日々を生きるエネルギーを充填しているのだ。裏を返せば、ヘヴィメタルという賦活剤なくして「殺意」を抱けない──口当たりのいい言葉に言いかえるなら「逃走/闘争本能」のスイッチが入らない。だから日常的に「殺意」を「殺気」を渇望する。

メタルヘッズから劇薬たるヘヴィメタルを取り上げると内向的で温和な人間がたち現れる。過去に実施された計調査では、ヘヴィメタルやパンクを好む人にはジャンル由来のイメージに反し、内気で繊細な人が多かったという。もっともこの調査はかなり眉唾もので、自意識と自己評価の高い人がジャズを好む傾向にあり、年収の高い人がクラシックを好む傾向にあると記しており、あまりにもステレオタイプ的すぎないかと思う部分もあるのだけれど。

ふだんは立派な家庭人のお父さんが、メタリカのライブに行くと激変する。かつてインタビューの中で、メタリカのフロントマン、ジェイムズ・ヘットフィールドがそう言っていた。おそらく、メタルヘッズにおとなしくて内向的な人が多いという傾向は、まったくの的外れというわけでもないと思う。ただ、メタルヘッズには人一倍のエネルギーが必要なのだ。日々の困難に立ち向かうために、殺意という劇薬じみたエネルギーの塊を必要としているのだ。

ヘヴィメタルの黎明について考えたとき、そこには間違いなく「殺意」があった。圧倒的な暴虐性と暴力性、世間のメインストリームに中指をおっ立て、アウトサイダーの旗印を掲げて同類たちを糾合する、そんな磁場めいたエネルギーがあった。

レッド・ツェッペリンやブラック・サバス、ディープ・パープルが地盤を固め、その土壌をアイアン・メイデンやメタリカ、ハロウィンたちがアスファルトで舗装し、舗装された路面の上にX JAPANやパンテラ、ジューダス・プリーストといった面々がビルを建てた。そうして先達たちの遺したものを受け継いでヘヴィメタルは今日にいたるまで進化しつづけてきた。

ツェッペリンやブラック・サバスの時代には野ざらしだったヘヴィメタルという荒れ地は、いまや摩天楼が建ち並ぶ一大都市へと進化した。ヘヴィメタル史のなかでいくつもの潮流が生まれ、それらが分岐と合流を繰り返し、ヘヴィメタルのサブジャンルは百科事典なみに細分化された。

ヘヴィメタルはロックを親にもつ。ロックはカウンターカルチャーの中で生まれ、社会のアウトサイダーたちの洗礼を受けた。その血統を受け継ぐヘヴィメタルもまた、ロックの反骨精神を引き継ぎ、さらにそこへ暴力性を取り込んだ。かつてメタリカやガンズ・アンド・ローゼズがデビューしたとき、他のハードロックバンドと彼らの暴力性は性質的に異なっていた。多くのハードロックバンドが自己セーブをかけて、あくまで「ポーズ」としての暴虐性をとっていたのに対し、メタリカやガンズの提示した暴虐性は本物だった。

そして彼らに影響を受けた後続バンドたちは、ステロイド剤で格闘家のような筋肉を携え、全身にタトゥーを彫り、長髪を振り乱してヘドバンを決めるというヘヴィメタルにおける様式美を確立した。そういった様式美もすべては「殺意」を表現するための手段である。オジーがコウモリを食べるのも、Yoshikiがドラムをぶっ壊すのも、スレイヤーがライブ会場に血の雨を降らせるのも、北欧のヴァイキングメタルバンドのフォロワーたちが、ヴィヴィランドサガ顔負けの隊列陣形を組んで船を漕ぐモッシュパフォーマンスを行うのも、すべては「殺せ」というシンプルなメッセージを体現せんがためである。

「裏に向かい外に向って、逢著すれば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。

 『臨済録』

「誰かが殺しに来たら立ち向かい、こちらが先に殺せ」

バビロニア・タルムード『サンヘドリン』篇72章1節

ヘヴィメタルは殺意の奔流である。サブジャンルが異なれど、メロディが違えど、その本質は潔いほど一貫している。手を変え品を変えリスナーに「殺意」を植えつける。だが、この「手を変え品を変え」の部分がじつに多様なのもまた、ヘヴィメタルの特徴である。

まず国・地域ごとにメロディの傾向が違う。メタルの聖地たる北欧のバンドは、ギターリフや曲調に常にペーソスが漂っている。イギリスのバンドは多くのリスナーが求めるオーセンティックな良曲を生み出し続け、ドイツのバンドは北欧と違ったベクトルの情感をメロディに組み込む。アメリカは商業路線から耽美的なメロディアス、オーセンティックまで、すべてを網羅したウォルマート的な市場を形成している。北欧とアメリカの間に位置する日本は、メロディアスなギターが特徴的な北欧の傾向と、耳なじみする聴きやすいアメリカ的要素を融合させた、独自の世界観を有している。

百科事典なみの細分化を経たヘヴィメタルのサブジャンルも「手を変え品を変え」の多様性を反映した結果といえる。低音グルーヴのデスボイスからロブ・ハルフォードのような高音シャウト。ひたすらシックに低音を響かせ続けるグランジ寄りのギターから、超絶技巧を繰り広げるメロディアス寄りのギター。そういった演奏の差異はサブジャンルへと昇華され、サブジャンルがまた新たなサブジャンルを生んで進化する。

ジャンルの多様性の一片を挙げれば、ヘヴィメタルという暴虐一色の世界観に、耽美主義という新たな価値観を持ち込んだ北欧系メロディクデスメタル。都会的に洗練されたモダンな世界観のなかで「暴力と美の共存」をブレイウダウンによって実現したメタルコア。暴力性の極北を体現せしめたスラッシュメタル/デスメタル。大仰かつ壮大な世界観で、リスナーを幻想世界へといざなうパワーメタル/シンフォニックメタル。レディオヘッド顔負けの前衛的アプローチをメタルでやってのけるオルタナティブメタル。

ヘヴィメタルのサブジャンルはじつに多様性に富んでいる。ひとことに「お雑煮」と言っても各家庭ごとに具材と味が異なるのと似ている。だが、そんな多様性もすべては「殺意」に帰結する。

ふだんの日常に疲れたとき、現実に押し負けそうになったとき、僕はそっとイヤホンをつけて爆音でヘヴィメタルを聴く。暴虐的な音の洪水が全身に注ぎ込まれ、身体の奥からふつふつと「殺意」がみなぎってくる。アドレナリンが身体中を疾駆して、闘争/逃走本能が励起する。僕のほうに向かってくる現実も、日々の不満も苛立ちも、それらすべてをひっくるめて爆砕する。それが僕の生き方──ハードモードな現実世界に立ち向かう、”たったひとつの冴えたやりかた”だから。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です