恋愛資本主義
会社で使っているパソコンの中に面白いファイルがあった。ハードディスクの海底2万マイル、ディレクトリツリーの深層にあったそのファイルにはこう書かれていた──「趣味:恋愛資本主義との闘争」
僕は小規模のゲーム制作会社に勤めていて、くだんのファイルは過去に考案された企画に登場予定だったキャラクターの設定らしい。恋愛資本主義に中指をおっ立てるようなアウトサイダーなニヒリストが、サブキャラで登場するゲームを過去に製作しようとしていたという事実にも興味を惹かれるけれど、それよりもなによりも僕の興味は「恋愛資本主義」なるパワーワードに否応なく惹きつけられた。
資本主義──健全な民主主義にとってのプロテイン。社会主義という山火事においては火勢を強める颶風であり、国家/社会/グローバリゼーション/文明の発展に不可欠な血液。カバーする領域も温度感も、およそ恋愛とは不釣り合いな言葉。そんなワードが恋愛という通俗的な言葉と癒着しているアンバランスさに、正直いってグロテスクな感懐すら抱いた。
恋愛資本主義というパワーワードは、嚥下し損ねた魚の骨よろしく僕の頭の中に刺さり続け、繁殖するウイルスのごとく僕の無意識を侵蝕していった。くだんのファイルを発見し、恋愛資本主義というワードを知ったのはかれこれ数ヶ月も前になるのだけれど、今日に至るまで僕は「恋愛資本主義」を事あるごとに思い出し、信号の待ち時間や一服している寸時に、ふと反芻しては思いを巡らせていた。Googleの検索結果にいっかな期待していない僕は、ググるという発想に至らなかった。そして先日、ふと思い立ってググってみた。これはひょっとすると過去にネットミームになっていたり、SNSで話題になったりして、一部の界隈では一般化している言葉なんじゃないか。そう思ったのだ。
「陽の下に新しきものなしですよ」と説諭してみせたシャーロック・ホームズはやはり正しかった。ググった結果、「恋愛資本主義」とはオタクな思想家の本田透氏が著作『電波男』の中で提唱した概念だと判明した。はてなキーワードによると、以下のように解釈されているらしい。
- 個々人の恋愛行為が、メディアや広告代理店の流布する大量のイメージに縛られ、資本の論理に汚染されている状況
- 純愛物語が、安直な映画・ドラマ・書籍などによって金儲けの道具にされ(娯楽のレベルに落とし込まれ)、逆に恋愛の至高性が失われている状況
- 「年収○○○万以上でないと」のような、金持ちであることが恋愛の条件になり、愛情とお金(や車・家など)が交換可能になっている状況
- そもそも愛情などという観念が消え失せ、恋愛・結婚がお金(や車・家など)と顔面の美しさの交換と化している状況
- 恋愛行為が、他人に相手を見せびらかしたり他人に優越感を持ったりする目的で行われ、他者の欲望を欲望するという契機のもと、資本主義的な差異の体系に(ボードリヤールの意味での「商品」を買うときのように)取り込まれてしまう状況
- 人を愛するということが、物を買うこと(そのために高い服を買う、出会い系を利用する、クラブに行ってみる、高い車を買う、高い料理を食べる等)と同一の規律として内面化されている状況
出典:はてなキワード
要するに、シェイクスピア作劇で描かれるような理想的な純愛像は現代において消費の対象に堕した。もはや恋愛は消費の対象でしかなく、資本主義というシステムに組み込まれて変成した、というのが要旨のようだ。
僕は浅学にして『電波男』を読んではいないのだけど、「恋愛資本主義」という概念は肌感覚的にわかる気がする。もっとも、『電波男』が上梓されたのは2005年で、同年にはオタク文化がライト化する土壌を用意したある意味ではエポックな映画『電車男』が公開されていることには留保が必要だ。時は流れて現代──2022年。
スマホが普及してマッチングアプリが電車の吊り革広告になるほど社会に浸透し、モラトリアムの臭気がかすかに残る若い女性が実利主義にはしった結果うまれたパパ活なる概念がお茶の間のニュースで取りざたされる時代。17年前と変わらず恋愛は今も消費の対象であり続けているけれど、その消費のされ方は格段に複雑化した。
「恋愛資本主義」という言葉への対置を試みるなら、恋愛を取り巻く今般の状況は「恋愛全体主義」と言えるのではないか。最初は単なる言葉遊びの思いつきに過ぎなかったのだけれど、今は「我ながらいい線ついているんじゃないか」と思っている。
「今の時代、結婚って安定じゃないですからね」
映画『愛がなんだ』
恋愛資本主義の派生形
恋愛資本主義があるのなら、恋愛民主主義があってもいいんじゃないか。恋愛個人主義も、恋愛共産主義も、あるいは恋愛ファシズム(これはちょっとイヤだな……)、恋愛ドクトリン、恋愛バブル、恋愛ニューディール、恋愛ウォーターゲート、恋愛博愛主義、恋愛全体主義、恋愛教条主義、恋愛ベルサイユ条約、エトセトラ、エトセトラ…………
恋愛のプレイヤーはひとしく個人であり、よってすべての恋愛は恋愛個人主義だと言える。非モテとかインセルを自称する人たちが主張するのは、極言すれば「なんで俺たちだけが」という僻み嫉みである。彼らが望むのは恋愛の絶対的な平等化、それをイデオロギーとして思想に定着させ、運動体たらしめれば恋愛共産主義に、それを国家レベルで追求すれば恋愛社会主義になる。
恋愛ファシズムなんて想像するだに恐ろしい世界だけれど、漫画『恋と嘘』や『ブラックミラー』シーズン4第1話『HANG THE DJ』の世界観がこれに近い。恋愛し、愛を涵養し、その持続的な成果として産まれるのが子どもだと捉えるのなら、中国の一人っ子政策も広義の恋愛ファシズムと言えるだろう。
恋愛ドクトリンは、親戚の年長者や会社の上司が心得顔で語る「いいか、恋愛っていうのはな」とか「男と女ってさ」という類のおはなし。人はみな誰しも恋愛について一家言持っている。恋愛巧者も恋愛未経験者でも、こうすればいいはずという戦略的観点は持っているはずで、それは恋愛におけるドクトリンにほかならない。恋愛というゲームは個人プレイ専用で、その戦略はおのずと個人レベルに限定される。だからドクトリンの本来の語義とは異なるが、戦略という意味で用いれば、恋愛に対する戦略的なアプローチはすべからく恋愛ドクトリンとなる。
失恋をウォール街っぽく言い換えれば恋愛バブルと相成る。恋に落ちると、脳内にはセロトニンやらドーパミンといった快楽物資が充満する。いわゆる恋の病にかかった状態である。だが悲しいかな、人は何にでも慣れてしまうもので、恋に落ちて告白、いざ付き合い始めて1年も経った頃には快楽物資の分泌量はすっかり漸減し、酩酊したような夢心地から覚めると、今まで見えていなかった相手の欠点が目立つようになる。身も蓋もない言い方をすれば、正気に帰るのである。そうやって相手の欠点/不満点の数がカウントアップされていき、何かの拍子に爆発し、別れることになる。この一連の感情のアップダウン、何かと似てる気がする──そう、バブル崩壊前後の折れ線グラフじゃないか。
恋愛ニューディール、これはなかなか意味のわからん言葉である。レトリックの限りを尽くして冷戦下の核戦争の可能性を論じたハーマン・カーンに勝るとも劣らない意味の分からなさである。そもそも恋愛を国家事業化して、国難を脱するための方策がまったくもって想像つかない。少子高齢化対策の一環として、日本政府が政策を立案したうえで婚活ではなく恋愛に介入してくる、というなら一応は恋愛ニューディールに該当するんだろうけれど、すべての人間は合理的かつ理性的であるという前提条件に基づく経済モデルやシミュレーションと異なり、恋愛には感情や性格といった属人的な要素が大きく関わってくるので、そもそも政策として成立し得ない。意味を成さないので、言葉としても成立しない。
恋愛ウォーターゲート。週刊誌やLINEニュースで定期的に流れてくる芸能人の破局報道を横文字にしてスノッブふうに言えば全部これに該当する。なんだか村上春樹的な大仰さというか、西尾維新的な言葉遊び感というか、そういう得体のしれないエネルギーを発している言葉である。おそらく村上春樹の小説の主人公なら、芸能人の破局報道を目にしても「やれやれ」と言いながらフィッツジェラルドを読んでいるに相違ない。
恋愛全体主義
余興がすぎたが、ここで恋愛全体主義という言葉について考えてみる。恋愛全体主義とは何か。端的に言えば、みんな恋愛恋愛と言い過ぎなのである。ここれでいう「みんな」とは友人/知人は言うに及ばず、バラエティ番組も、邦画や漫画、インターネット、ひいては社会全体を指す。
コンテンツとして消費するため、俎上に載せられる消費対象としての「恋愛」。それがかつての恋愛資本主義だったとするならば、現代はそれがより過剰になり、「恋愛」について意識過剰になった結果、「恋愛し、結婚すること=絶対的かつ普遍な幸福の形」という価値観が、冥々裡のうちに社会全体に刷り込まれているのではないか。つまり、現代における「恋愛」とは「幸福の形」という価値観を刷り込むための社会的な教化装置なのではないか。みんなが気づかないうちに、ある一定の価値観を刷り込まれてしまう、それは全体主義なのではないか、というのが僕の論旨だ。
恋愛全体主義は「恋愛資本主義」を包摂している。恋愛がコンテンツの俎上に載せられ、消費され続けた結果うまれたのが全体主義としての恋愛という状況だ。電車に乗れば利用者数No1を謳う「タップル」の広告が目に入る。Instagramは勝手に収集したユーザー情報から新規のマッチングアプリを広告でレコメンドし、邦画も漫画もアニメもTwitterで流れてくる4ページくらいの漫画も、恋愛について過剰なまでに言及している。
人は感情を獲得してこのかた、恋愛について悩まされてきた。ゲーテは自殺者を大量に生み出し、ロミオとジュリエットは初演から現代まで何度も舞台の上で逢着と離別を繰り返し、暴力とセックスが映画の黎明期から定番の題材だったことからもこれは明らかだ。種を存続させるための生殖本能としての「恋愛」。それが僕たちの「恋愛」に対する自然な距離感だとするならば、現代の「恋愛」に対する過剰なまでの言及は、熱病じみていると言えなくはないか。スマホが普及し、情報の流れが幾何級数的に加速化した結果、恋愛についての言及がいや増し、今次のような熱病じみた状況──価値観の刷り込み──恋愛全体主義が生まれたのではないか。
非モテという概念は、もともと友人/知人間で交わされるローカルな話のネタだったはずだ。それがコンテツとなって大衆に消費されることで、同時に「非モテ」という概念と化して大衆にインストールされる。あるいは、女性との接点をほとんど持たなかった一部の男たちが、彼女を持った陽キャ男子に対し、最初は憧憬を抱いていたが、それが匿名掲示板で横溢した結果、反動保守的な運動体として「インセル」という概念が西欧社会に産み落とされた。最初は「俺だって彼女ほしい」という普遍的かつ共感を呼ぶ心の声でしかなったそれが、情報インフラによって増幅され、いつしか反動保守的な言説へと転じてしまった。
邦画は戯画じみたキッチュな恋愛像を量産し続けているし、ライトノベルもまた同じ。恋愛について過剰すぎる現代の象徴的な作品を挙げるなら『かぐや様は告らせたい』がその筆頭だろう。「好きな人に好きって言いたい」──たったそれだけのことなのに、過剰に考えすぎた結果、本心とは別の行動を取る/相手が意想外の行動に出ることによる諧謔。
思春期のころ、好きな人に不器用にアプローチする同性に後ろ指をさして、陰でゲラゲラと呵呵大笑した覚えは誰にでもあるはずだ。『かぐや様』はそれの拡張再生産に他ならず、視聴者だけが全てを見通して登場人物たちの滑稽なまでの不器用さを笑いのネタとして消費するというジャンル化された様式でいえば、『テラスハウス』もまた『かぐや様』と同じ系譜に位置づけられる。
恋愛=幸せの形という刷り込み
社会全体が恋愛について過剰なまでに言及し続けた結果、恋人がいる人に焦点が当てられ、独り身の人は相対的に敗北感を味わう。恋愛することこそが正義であり、恋愛しないのは常道を逸している。そんな風潮がじわじわと醸成され、「ヤバい、もう30代やわ。そろそろガチで婚活せなアカン」という釈然としない焦燥感を抱き、ますます恋愛に血道を上げる。これを全体主義と言わずして何というのか。
幸せの定義は人それぞれあって然るべきだし、少なくとも「恋愛=正義」という価値観を押し付けられて、唯唯諾諾とそれを甘受する必要性は微塵もない。思考停止に陥り、緩やかに変節していく状況を甘受し始めたときに全体主義が完成される。「ん? なんかこれ違うくね?」と人々が現状について疑義を挟んだ頃には遅きに失し、全体主義は社会を被覆して誰にも止めることはできない。この先に待つのは、ただ緩慢とした思想的な死のみである。
そうは言っても、そんなにうまく自分の寂しさをコントロールできないし、なかなか寝つけない深更に、ふと人肌が恋しくなったり、自分のことを深く理解してくれる相手が欲しくなることがままあるのもまた事実。それが人情というものであり、孤独というものだ。それはわかる。酒宴の席などで恋愛対象である異性/同性に身体を寄せられたり、飛行機の離陸前にCAさんがベルトの装着を促すべく接近してきたり、そういった日常の中での肉体的な接触から、ふと肉欲が沸き上がる。そういった生理的欲求が自分の孤独をことさら意識させ、「はぁ……恋人ほしい……」というマインドに帰結する。それもわかる。だって人間だもの。
結局のところ、「男と女(以下、LGBTQを考慮しない表現だが便宜上あえてこう呼ばせもらう)」とはそういうものなのかもしれない。僕は昼間は会社員、夜はキャバクラで働いていて、前職もまた繁華街で夜の仕事をしていたのだけれど、夜の街に遊びにくる大金をもった男たちを見ていて痛感することがある。それは、人間はどれだけ理知的に成長しても、結局は温かいとか気持ちがいいとか、そういったプリミティブなレベルで行動してしまう生きものだということ。
妻子のいる壮年の男が、なぜ一晩でホステスやキャバ嬢に数十万円も払うのか。日曜日は家族サービスに精を出す家庭人が、なぜホステスの誕生日にプラダのバッグをプレゼントするのか。それは結局のところ「男と女」だからであり、逆に言えば「男と女」というのは、それだけのことでしかないのだ。
自分が男/女であり、相手が女/男である。自分が女/男であり、相手が男/女である。そこには欲情が絡む。恐怖と欲情は人間にとって防御できない要素である。だからこそホラー映画とポルノ映画は普遍にして不滅の存在なのだ。こと恋愛において欲情は必要条件ではないが十分条件であり、両者が密接に絡み合って恋愛の複雑性に裨益している。
こういったプリミティブな感情は、僕たちの脳にあらかじめ組み込まれている「種の生存本能」がなせるわざだし、そういった本能を持つ個人で形成された社会には、あらかじめ恋愛を促進する装置が内蔵されている。それをことさらに意識させるのが現代の状況──恋愛全体主義であり、現代に生きる僕たちに、この卑劣な罠から逃れる術はもはやない。
かろうじて抵抗を試みるとするならば、自分にとって本当の幸せについて思いを巡らせることくらいだろう。人の数だけ現実があるように、幸福の数もまた人の数だけ存在する。『ファイト・クラブ』のなかでタイラー・ダーデンは言う──「人生の待ち時間はいつかゼロになる」
休日の繁華街を歩いている時に、手を繋いで楽しそうに談笑するカップルを見て素直に「あぁ、良い光景だなぁ」と思うことがある。僕はもうかれこれ4年も恋人がいない状態だけど、今のところ恋人が欲しいとは思わない。けれど、そうは言っても僕だって人の子なわけで、異性を求める生理的な欲望が皆無なわけではない。
くだんのカップルを見つめながら、僕は想像をめぐらせる。もし自分が恋人を見つけて結婚し、家庭を持ち、人生の花盛りを過ぎた60代を迎えた時の自分の姿を。休日の昼下がり、ふとした拍子に感傷的になって過去の自分を顧みる。そのとき、自分の過去に満足できているのだろうか、と。
僕には死ぬまでにやりたい目標が両手の数ほどある。これをやるまでは車に轢かれても、地震で倒壊した瓦礫に生き埋めにされても、絶対に死ぬもんかと心に決めている「やりたいこと」がある。何度想像をめぐらせても、「やりたいこと」をやらぬままに、自分の本心を無視したままに家庭を築き、日銭を稼いで育児に奔走したとして、おそらく僕は僕自身を許せないと思う。
郊外の建売住宅で妻と子どもがいて、犬と猫が一匹ずつ、車が一台。ファンキーモンキーベイビーズが歌の中で描くような、日本のノーマン・ロックウェルふうの牧歌的な家族像。僕にはそれがしっくりこない。恋愛/情愛と「やりたいこと」を天秤にかけたとき、圧倒的な大差で「やりたいこと」が勝利する。それが僕にとっての幸せの形なんだろう。こんな人間だから、恋愛をめぐる過剰なまでの言説に意識が働くのかもしれない。
恋愛資本主義から恋愛全体主義への変遷を論じながら、この駄文を書いている僕もまた恋愛全体主義に寄与しているというパラドックス。人間は感情で動く生きものだし、恋愛は感情が織りなす現象ゆえに僕はこのパラドックスから逃れることができない。なんだかムシャクシャしてきたのでサマセット・モームを引用して強引に結文とする。
恋愛、それは種の存続を達成するために仕掛けられた卑劣な罠だ。
サマセット・モーム