私はこうやっていろんな場所で文章を書かせてもらっているが、お察しの通り頭は決して良くない。むしろ悪い方だ。頭が良くないので、漠然と「賢くなりたい」と考えて、いっぱい本を読んだり、手当たり次第に知識を集めてみたり、たくさんの人に話を聞いたりしてみた。だが、結局のところ、頭は良くならなかった。ただ中途半端に少しづつ色んなことを知ってはいるものの、それを繋ぎ合わせて新たな物を見出す知恵が身につかなかった。
こうして文章を書くようになって、『読み方』も変わった。小説・Web記事・エッセイ・日記など、インターネットにはたくさんの読み物が落ちている。最初の頃はそのすべてを糧にしようと躍起になっていたものだが、最近はもうそんな気力も湧かない。自分はいくら知識をかき集めたところで、それを活かすことができないからだ。知識と知識が繋がらない。私の頭の中はいつもばらばらだ。パーツはあるのに、ねじがない。だからいつまで経っても、パーツはパーツのまま。
素晴らしい文章というのは、色んな読み方ができるものだと思う。読み手の感情や背景によって、意味が変わっていく文章ほど素晴らしいものだと思う。もちろん、誰に対しても的確に同じ意図を伝える文章もすごいのだが、それはアーティスティックではない。美しい文章は、人の想像力をかきたてて、その上でその想像したものを肯定する力を持っている。想像したものを、間違っていると思わせない。
そんな文章を書くためには、「色んな意味で捉えられる」ように書かないといけない。はっきり書かないことでそうできるが、ぼかしてばかりでは面白くない。そのバランスを上手くとるには、先程から言っているように「ねじ」が必要なのだ。ぼかした内容と、ぼかした内容。その間を埋めていくのが「ねじ」であり、それがなければ文章は繋がらず、一貫性の無いものになってしまう。
いい文章には、いい「ねじ」が必要なのだ。だが私の頭の中に「ねじ」は無い。だからいつも、適当なパーツを捻じ曲げて、ねじのような何かを作り、それで繋げる。そうやって出来上がった何かは、とてつもなく不格好であり、足元の小さなパーツを蹴飛ばせばすぐに崩壊してしまう。人はそれを見て、ある人は不快感を覚えるし、ある人は理解できずに去っていく。
私は、私の頭の中に出来上がった不格好な何かと対峙して、いつも思うのだ。ああ、私は、これを愛しているなと。
mazireal