悲しみの副産物として生まれていく物語

物語が生まれるのは、決まって悲しいことが起きた時だ。それも、とびっきりの悲しいことでなくてはならない。ほんの少しの、例えば小指を箪笥の角にぶつけただとか、自分の周りから小蠅が離れないとか、そういう小さい悲しみじゃなくて、もっと大きな悲しみでなくてはならない。小さい悲しみにも物語は生まれることはあるが、結局元を辿って行けば、物語の根本には何か大きな悲しみが埋まっている。小さな悲しみが物語の引き金になることはあっても、物語が生まれるきっかけにまでは至らない。

私の頭の中に何も浮かばないということは、私がここ最近何も悲しいことを経験していないという証拠だ。普通であればそれは喜ばしいことで、それでいて当たり前のことなのかもしれない。でも、ずいぶん長いこと「脳の中に生まれる物語」と一緒に生活してきた私からすると、その状況はとてつもなく不安で仕方が無かった。私の価値が無くなってしまったような気がした。自ら悲しい気持ちを生むようなことをしていた。無理やり自分の嫌なところを探しては、自分は駄目だと暗示をかけてみたり、自分の嫌いな物や嫌な気持ちになるものをわざわざ見に行ったりもしていた。

先日私は「大きな悲しみ」とやらを経験することになった。一言で言えば、ペットの死だ。

物語は、以前よりずっと簡単に生まれるようになった。「義務」になり始めていたはずなのに、「書きたい」という気持ちが湧くようになった。

ただ、ふとした瞬間に思う。これでいいんだろうか。本当に、これでいいんだろうか。人間として。

私は今悲しいと同時に、ほっとしている。今まで無くなってしまっていた「書きたい」という気持ちや、物語をふと思いつく想像力が、少しづつ復活してきているのを感じているからだ。でも、それと同じくらい悲しみはまだ心の中に溜まったままで、それが重くて立ち上がれはしない。私の感情は、今どっちなんだろうか。悲しいのか、それともほっとしているのか。

ふと、頭の中に「ほっとするための言い訳」が思い浮かぶことがある。もうペットを気にせず旅行にも行けるし、毎朝5時にご飯のために起こされることもない。家の鍵をかけたかどうかをやたらと気にしなくてもいいし、トイレの処理をしなくてもいい。それに、きっとこれからは、物語も生まれる。この経験が、悪く言えば何かのネタになる。だから、悲しいことなど何もない。
そんなはずはないのに、そんなことが思い浮かぶことがある。その度に、自分がいかに冷たくて酷い人間なのかを痛感させられてしまう。そして、悲しくなり、また想像力が刺激される。私は、「自分が酷い人間である」ということ自体にすら、ほっとしてしまう。私の中に私が二人いて、一人が落ち込み、一人がほっとするための言い訳を考え、落ち込んでいた方の人間がもう一人の方を蔑み、蔑まれた方がさらに言い訳を考える。そして、「私」はその真ん中で耳を塞いで、どちらの「私」にも気付かないようにしている。板挟みになっていることにも、自分の中に醜くて酷い自分がいることにも、気付かないようにしている。その副産物として、物語が生まれていく。

私は、心を守るべきなのか、それとも徹底的に壊すべきなのか。いつまでも答えが出ないまま人生が進んで行く、そしていつまでも答えが出ないことにもほっとしている。答えが出てしまったら、私の中で二度と副産物は生まれない。そうすれば、私の価値も一緒に無くなってしまうだろうから。

mazireal

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