この世界で生きていく限りは、「ちゃんと生きなければいけない」のだ、と気付いたのは最近のことだ。ちゃんと、きちんと、ていねいに。適当に生きていることは、この世界で言う「生存」には当てはまらないのだろう。そう考えると納得がいく。生存、というのはただ呼吸をしてこの世界に存在している、ということだけを指すわけではないのだ。
そう思いついた私は、まず「皿洗い」を丁寧にしてみることに決めた。時間を気にせず、ゆっくり洗う。皿を持ち上げる。手を滑らせないようにしっかりと持ち直す。スポンジに洗剤をワンプッシュ。まずは食材が乗っていた方の面を、ぐるぐる円を描くように。皿の縁にスポンジを添わせて、一周、二周。裏を向けて、足のついた方を、ぐるぐる円を描くように。水は勢いよく出さずに、控えめな水量で。表と、裏。洗剤が流れ切ったかどうか、指で確認する。指が滑らず、きゅっと引っ掛かりを感じたら、皿を丁寧に伏せて置く。
そうしていると、これまで感じていた何の理由も生産性もない妙な焦りのようなものが、溶けて消えていく気がした。思えば、丁寧に毎日の生活を営んだ方が、メリットが多いはずなのだ。しっかりと持つから落として割ってしまう心配もない。汚れの残りを見つけて二度手間になることもない。勢いよく出た水が面ではじけ飛んで、服をびしゃびしゃにしてしまうこともない。要は、丁寧にちゃんと生きた方が、生きやすいのだ。
でも、人間という生き物は愚かだから、すぐに適当に生きようとする。適当に生きた方がかっこいいとさえ思う。だから、その辺のスーパーの冷めきった揚げ物と、99円のストロングチューハイを買ってしまうのだ。空になった薬のPTPシートをたくさん集めて、血のついた刃物を添えて、服を脱いでしまうのだ。そして、そんな適当な生活をしていることを、わざわざインターネットに発信してしまうのだ。自分を不利な状況に追い込むことで、今の自分を正当化するために。こんなひどい生活をしているのだから、自分が苦しくて辛くて可哀想なのも当然だ、と主張するために。
綺麗は汚い。汚いは綺麗。カッコいいはカッコ悪いし、カッコ悪いはカッコいい。丁寧は適当だし、適当は丁寧。生きているは死んでいるで、死んでいるは生きている。
だから私も、適当に生きてしまう。結局、適当な生き方をして、現実から逃げる。その方がラクだと思っているけど、きっと心にダメージが蓄積されている。その蓄積されたダメージを、毎日心から取り出しては愛でている。それだけが、自分の生きている証拠になってくれるから。
mazireal
僕の友達が、トントンとまな板を叩く音を歌にしたのを、思い出しました。