──気付けば私は、真っ白な世界に立っていた。雪山だろうか、とも思ったが、気温は低くなく、秋と冬の境目のような心地よい気温だった。何度か足踏みをしてみる。地面は固く、さらさらしている。アスファルトのようにごつごつしているわけでもなく、タイルのようにつるつるしているわけでもない。指で地面をなぞってみると、わずかに引っかかりは感じたものの怪我はしなかった。ほんのりとぼやけた光源が、背後にあった。ぼんやりした光源が照らす私の体からは、真っ直ぐに影が伸びている。その影の伸び方からして、ここは非常に広い場所であることが分かった。
何もない。ビルも無ければ、車も無い。液晶も、木も、家も無い。音も聴こえない。私は、この異常な空間に、孤独感と焦燥感を覚えた。心臓がばくばくと震え、体内から湧きだす何かに従って、無意識のうちに私は走り出していた。はぁ、はぁ、と喉の奥から吐き出す息が徐々に熱くなった頃、私は足を止めた。
遠くの方に、机があった。黒くて四角い天板に、細い足が四つ付いているだけの、簡素な机。その机と同じ、黒くて簡素な椅子があり、そこに一人の人間が座っていた。
その人間は、椅子に座って、机の方を向き、何やら作業をしているようだった。時折、先の見えない高い天井の方から、ばらばらと何かが机に向かって落ちていた。
ばくばくと鳴り響く心臓を押さえながら、私はその人間に近付いた。その人間の顔が見えた。その人間は男で、身長が自分より十センチほど高いのが見て取れる。その男は温和そうな顔をしていて、黒縁眼鏡をかけていた。
私はまた焦燥感に襲われ始めた。その男は、こちらに気付く様子が無かった。
どう声をかけていいのか分からなかった。「あの」だろうか、「すみません」だろうか、「ここはどこですか」「あなたは誰ですか」「何をしているんですか」……
ばらばらばら、と大きな音がして、何かが降って来た。その『何か』は私の体にも降り注ぎ、私は思わず目をつむって頭を押さえた。恐る恐る目を開くと、机に向かっていた男性は驚いた顔でこちらを見ていた。
ごめんなさい! と思わず口を突いて出そうになったが、声が出なかった。その代わり、またばらばらばらと、空から何かが落ちてきた。私が床に目をやると、そこには『平仮名』が落ちていた。大小さまざまな、色もさまざまな、平仮名だ。私はふと、百円ショップのインテリアコーナーに置いてある、木製のアルファベットを思い出していた。
こんこん、と音がした方を見ると、男性がこちらを見て微笑んだ。どうやら机をノックしたらしい。何かを理解したような顔で、私を手招きする。言われるがままに歩を進め、私は男性に近付いた。
ばらばらばらと、机の上に平仮名が落ちてきた。男性は何かを考え込むようにわざとらしく腕組みをした後、その平仮名を手に取り、並べ替え始めた。
【どうしたの】
ぽん、とその平仮名は浮き上がり、ほのかな豆電球のような光をまとって、男性の喉に吸い込まれた。
「どうしたの?」と、男性が言った。
私はあんぐりと口を開けた。頭が真っ白になっていた。目の前で起きていることが何なのか、分からなくなっていた。
またばらばらばら、と平仮名が落ちてきた。「み」「も」「よ」「や」「つ」「き」「な」「て」「み」。男性は慣れた手つきでそれを並べ替えた。
【きみもやつてみなよ】
平仮名が光り、喉に吸い込まれていく。
「きみも、やってみなよ」
理屈は、理解した。ばらばらばらと、私の周囲に平仮名が落ちてきた。しかし、平仮名は広範囲に散らばっている。私はひとまず近くに落ちたものを集めて、並べ替えた。しかし、いくつか文字が足りなかった。私はその辺を少し歩き回って、必要な文字を手で集めた。
ようやく集め終わり、私はそれを床で文章になるよう並び替えた。ぽん、と浮き上がった平仮名は、私の喉に向かって飛んできた。ぐっと目をつむったが、何も不快感は感じなかった。ただ、喉のつまりが取れたような感覚があるだけだった。
「あの、これって何ですか?」
私はようやくそう口にした。私はこんな声だったっけ。ずっと前からそうだった気もするし、なんだか私の声ではないような気もする。
私が言い終わる前から、男性は既に手を動かしていた。
「ここはね、なにもないところだよ」
なにもないところ? 聞き返そうにも、声が出ない。代わりに一メートル先の方に、ばらばらと平仮名が落ちる。私は仕方なく一メートル先まで行って、平仮名を集め、並べ替え、喉に吸い込ませた。それにしても、邪魔な平仮名の量が多い。
「なにもないところ、って?」
数秒の沈黙。
「その名前の通りだよ。なにもないところ。ここには、言葉しかない」
「言葉?」
平仮名を探し出して並べ替えるのがあまりに面倒で、短い言葉で聞き返した。
「そう。君が発したいと思った言葉が、落ちてくる。それを集めて、言葉にする」
男性はとにかく文字を集めて並び替えるのが早かった。一体、いつからこんなことをしているのだろうか。
「なるほど」
「最初は操るのが大変かもしれないね」
「操る?」
「慣れたら僕のように、ほら」
男性は、言葉を並べ替えた後、机を指差した。
「落ちてくる言葉を制御できるようになる。自分の近くに、必要な言葉だけが落ちてくる」
「なぜ?」
会話のあまりのテンポの悪さにイライラして、手に届く箇所にあったそれだけで間に合わせてしまった。男性はふふ、と笑った。
「そういう場所だから、だね」
♢
ずいぶん長い時間をかけて、私は男性と『会話』をした。会話と言えるのかどうかは分からない。私は満足な一文を作るのに、数分かかったからだ。
時計というものが存在しないので細かいことは分からないが、私と男性はおそらく何時間もかけて基本的な会話をした。
男性は、『ナナシ』と名乗った。名乗ったことになるんだろうか、とも思ったが、面倒だったのでつっこまなかった。ナナシさんは、この場所を『なにもないところ』と呼んでいた。ここでは、お腹も空かないし喉も乾かない。睡眠を取らなくても、特に問題はないようだった。他に人はいるのか、と聞いたら、「いるかもしれないし、いないかもしれない」と返事が返って来た。ここはあまりに広大で、それに加えて目印らしきものも何もないため、この世界がどこまで広がっていて、果てに何があるのかもナナシさんは把握していないのだという。
「ごくまれに、君のような人がふらふら現れることがある」とナナシさんは言った。
「僕は、そういう人たちが元の世界に戻る手伝いをしている」
♢
元の世界、と聞いたとき、私の頭には嫌な記憶しか蘇ってこなかった。はっきり言わなきゃ分かんないでしょ、と怒る両親。あなたの言葉に傷付いた、と泣く友達。頼りない話し方をするな、と怒鳴る上司。分かりにくい説明ですね、と笑うクライアント。お前は、はい、とだけ言っときゃいいんだよ、と舌打ちした彼氏。
私は『なにもないところ』に来る寸前のことを思い出した。何もかもが嫌になって、咄嗟に声が出なくなった。声を出しても無駄だと思って、話すのをやめた。そうしているうちに、誰とも会いたくなくなって、何もしたくなくなって、それから……
「心当たりがあるんだね」と、ナナシさんが言った。私は答える代わりに、首を縦に振った。ナナシさんは、私の背景について詳しく聞こうとはしなかった。
「ゆっくり練習すればいいよ」
そう言ってナナシさんは、落ちてくる平仮名を手際よく集め、並び替え、喉に吸い込まれていく文字を楽しそうに眺めていた。
「ここも、向こうも、やることはそんなに変わんないはずだから」
♢
私は、ナナシさんに教えられるままに、平仮名を並び替える練習をし続けた。
まず、深呼吸をする。そして、心臓の裏辺りに集中する。自分の鼓動を数えながら、今私が言いたいことを、体の奥からゆっくり引っ張り上げていく。勢いよく引っ張ると、その勢いで平仮名が飛び散ってしまうんだと、ナナシさんは笑った。飛び散らないように、そして雑音が混ざり込んでしまわないように、ゆっくりと。最後に、ふう、と息を吐く。
ばらばらばら。
数週間練習すれば、私は平仮名をコントロールできるようになっていた。必要な言葉だけが、必要な数だけ、自分の近くに落ちてくるようになった。
「だいぶ上達したと思わない?」
「うん、上手」
ナナシさんは私の頭を一撫でして、また自分の『遊び』に戻ってしまった。彼は毎日、適当な平仮名を体から引っ張りだしては、それを並び替えて言葉にする遊びをずっとしていた。
「ナナシさんは、どこから来たの」
私はある日、そう尋ねた。ナナシさんは、しばらく真っ白な宙を見て考え込んでいた。平仮名も、その間は一文字も落ちてこなかった。数秒間、何もない、まっさらな時間だけが流れた。しばらくして、ナナシさんがこちらを見て、ふっと笑った。その瞬間、ばらばらと平仮名が落ちて来た。「れ」「も」「す」「う」「よ」「わ」「た」。ナナシさんが並べ替えて声を発するまでに、私はもうそれが何の言葉なのか理解していた。
「もう、忘れたよ」
でも、ナナシさんが出した声は、私が予想したあっけらかんとしたものよりも、随分重みと悲しみを含んでいた。だから、私はもうそれ以上、ナナシさんの過去について聞くことはやめた。そんなナナシさんの声は、二度と聞きたくないと思ったからだ。
♢
ナナシさんが自分の『遊び』をする間、私もナナシさんから離れた場所で同じ『遊び』をするようになった。でも、ナナシさんのやっているそれと、私がしているそれは少し違った。
私は、ナナシさんのことが好きになっていた。こんな何もない、よく分からない空間で一人、ずっと私のような人間を手助けして生きている。迷い込んだ人間がパニックにならないように、毎日私たちのような人間への寄り添い方を思考している。そして何より、彼は言葉を愛している。前の世界で出会ったような、言葉を雑に扱う人たちのようではない。彼は、ナナシさんは、何よりも言葉を愛して、大切に扱おうとしているのだ。
ばらばらばら。
降り注ぐランダムな平仮名を、私は並べ変える。
ナナシさんへの思いを、私はどんな言葉で伝えたらよいのだろう。最近は、そればかり考えていた。「すきです」はちょっと違う。「あいしている」ともちょっと違う。「あなたのことをたいせつにおもっています」、これはちょっと長いし逆に重い。適切な言葉が見当たらない。だから、自分で作るしかない。ナナシさんが毎日やっているように、新たな言葉を生み出さないといけないんじゃないか。
来る日も来る日も、私は平仮名を落とし、並べ替え続けた。でも、しっくりくる言葉が出てこなかった。
来る日も来る日も、私は平仮名を落とし、並べ替え続けた。でも、しっくりくる言葉が出てこなかった。
♢
ある日、私は猛烈な眠気に襲われた。この『なにもないところ』に来て初めての、いや、前の世界にいた時にも感じたことの無いような、抗いがたい眠気だった。がくん、とうなだれた私の方に、ナナシさんが駆け寄ってきた。私が横になると、ナナシさんは私の横に正座した。ばらばらばら、と、平仮名が降る音がする。
「まだ聞こえるかい」と、ナナシさんが言った。私は、どんどん重くなっていく首を、どうにか縦に振った。
「君は、元の世界に戻るんだ、これから」
ナナシさんはそう言った。元の世界? 戻る? 私が?
「君は向こうでもうまくやっていける、そう判断されたんだろう」
判断? 誰が? どうして? 何を基準に?
「じゃあ、気をつけて。もう二度と、ここに来るんじゃない」
二度とここに来られない? じゃあ、ナナシさんにはもう会えない? ねえ、私はどうしたらいいの? 元の世界に戻って、どうすればいいっていうの?
ばらばらばら。私のものなのか、ナナシさんのものなのか分からない平仮名が、どしゃぶりの雨のように降り続いている。ナナシさんは、その中から言葉を探すのに手間取っているようだった。私はなんとか眠気と闘い、薄っすらとまぶたを開けてナナシさんの姿を探した。
「教えたことを、思い出して。僕が。うまくいく、きっと」
ナナシさんの言葉は、主語と述語がばらばらになっていた。順番通りに言葉が見つからなかったからだろう。私のわずかな隙間から見えるナナシさんは、ぼやけていたけどちょっと泣いているように見えた。
私は、ナナシさんに教えてもらったことを実践することにした。まず、深呼吸。そして、心臓の裏辺りに集中する。自分の鼓動を数えながら、今私が言いたいことを、体の奥からゆっくり引っ張り上げていく。飛び散らないように、そして雑音が混ざり込んでしまわないように、ゆっくりと。最後に、ふう、と息を吐く。
降り続いていたどしゃぶりの雨が、すっと止んだ。ぱらぱら、と、私の近くに落ちて来た言葉を、私は限られた視界の中で並べ替えた。
ああ、私の中から引っ張りだされた言葉は、こんなにもシンプルで、ありふれた言葉だったのか。もっともっと、ナナシさんだけに伝わる言葉があればよかったのに。結局これしか、私には無かったのか。
「ありがとう」
私は、抗えなくなって、目を閉じた。真っ白だった視界が、暗闇に包まれる。元気で、というナナシさんの声が聞こえた気がした。
♢
その後、私は病院のベッドで目覚めた。騒がしい看護師さんの声と、ワゴンのがらがらという音と、足音、喧騒。忘れかけていた、両親や友達の顔。矢継ぎ早に吐き出される言葉は、早すぎて私の耳に届かなかった。でも、それでよかったんだと思う。言葉としては聞こえなかったけど、多分トゲのある言葉だったと思うから。
私は、こっちの世界に戻ってからも、ナナシさんに教えてもらったことを実践した。深呼吸。体の中から、ゆっくりと引っ張り出す、私の言葉。私にしか紡げない言葉。それを繰り返していたら、いつの間にか私は家を出ることになっていて、彼氏とも別れることになっていて、仕事も変えることになっていて、今住んでいる町から引っ越すことになっていた。
たたん、たたん、とリズミカルに流れていく景色を見ながら、私は頭の中に平仮名を散らし、並べ替えた。そして、しっくりこないな、と、その言葉をペットボトルの緑茶で流し込む。たくさん、言葉を紡ごう。いつかしっくりくる言葉が、咄嗟に思いつくように。いつかもう一度ナナシさんに会えた時、適切な気持ちを適切な言葉で伝えられるように。
いつか読もうと思っていたのが今日でした。読み手の心持ちというものも、不思議に感じます。少なからず感覚が繋がるお話、ありがたく抱き上げました。