無職流:終わっていくラジオとの向き合い方

Creepy Nutsのオールナイトニッポンが終わるらしい。

「らしい」という書き方をしたのには理由がある。
『Creepy Nutsがオールナイトニッポン卒業』というタイトルのニュースは見たし、佐久間宜行のオールナイトニッポン0で佐久間さんが「終わっちゃうのか~」というトークをしていたのも聴いた。
だが私はまだ、Creepy Nutsの口からその言葉を聴いていない。火曜日深夜にやっているCreepy Nutsのオールナイトニッポンをタイムフリーで聴けばいいだけの話なのだが、まだ聴いていない。いや、聴けていない。これを聴いてしまえば、「~らしい」という噂が現実になってしまう。まだ私の中では、Creepy Nutsのオールナイトニッポンが終わるというのは噂の範疇でしかないのだ。

私はまだラジオリスナー初心者で、「ラジオの終わり」というのには一回しか直面したことが無い。その一回というのは、菅田将暉のオールナイトニッポンである。確か終わる時にも、この『なにもないところ』で記事を書かせていただいた。

菅田将暉のオールナイトニッポンが無くなった今、深夜のお兄ちゃん枠は完全にCreepy Nutsが担ってくれていた。菅田将暉ほどではないが、Creepy Nutsは完全に深夜のバカ騒ぎするお兄ちゃんたちだった。
Creepy Nutsのラジオの良いところといえば、やはりいい意味でのしょうもなさだ。菅田将暉は日常のちょっとしたことを大きな笑い声で包んで提供してくれていた。Creepy Nutsは、架空のどうでもいい話を、大きな笑い声で包んで提供してくれる。

「もしもの話」というのは、話をしている人たちにとっては楽しいものだ。ただし、聴いている人にとっても同じかというと、必ずしもそうではないと思っている。というのも、もしもの話というのは言うなれば広義のあるある話だからだ。「もしもこういった状況に置かれたら、自分ならこうする」というその行動の予想は、それを話している人にぴったり合っていてようやく面白くなる。つまり、Aさんの話す「もしもの話」を聴いて、「いや~Aさんらしいな~その状況が目に浮かぶ」と思えたら、そのもしもの話は面白くなるのだ。だから、「もしもの話」を聴いていても、話者のことをこれっぽちも知らなければ、それは全く面白くない話になってしまう。ただの突拍子もない話でしかないからだ。

しかし、Creepy Nutsはこの「もしもの話」が異常に上手かった。DJ松永とはどういう人なのか、R-指定とはどういう人なのかをあまり知らなくても、この二人がする「存在しない話」はめちゃくちゃに面白かったのだ。二人のする「もしもの話」「存在しない話」は、異様に解像度が高かった。解像度が高い上に、何度も言うがいい意味でしょうもなかった。
特に有名な「もしもの話」は、「闇マック」だろう。マクドナルドにある「朝マック」の逆があればいいのに、という話から、「もしも闇マックがあったらどういうメニューがあるのだろう」という話に広がった、あの回である。内容的には、もちろんしょうもない。何か学びがあるわけでもなければ、めちゃくちゃためになるわけでもない。なのに、どうしようもなく面白い。最終的にはリスナーもこの「もしも闇マックがあったら」という話に飛び込んで大盛り上がりした。

Creepy nutsのラジオは、ほとんどがこんな話ばかりだった。実際にあったことを話すエピソードトークも面白かったが、この「もしもの話」は本当に楽しかった。ラジオという媒体にも相性が良かったのかもしれない。「もしもの話」は、広げようと思えばいくらでも広げられる。その日その時間にその話を聴いたばかりのリスナーでも、そこに飛び込んでいきやすかった。

そのためか、Creepy nutsのラジオは、パーソナリティとリスナーの距離がかなり近い。それも、Creepy nutsを『深夜のお兄ちゃん』たらしめていた要素の一つだろう。

しかし、こんなしょうもなくて、くだらなくて、距離が近くて、素晴らしい、深夜ラジオのお手本みたいなラジオが、終わってしまうらしい。
「音楽活動に打ち込むため」という理由ももっともなことだから、軽々しく「辞めないで」とも言えない。辞めないでほしい、でも少しは休む時間を作ってほしい、健康でいてほしい、でも辞めないでほしい。どうしようもない感情に挟み撃ちにされて、何と言葉を出したらいいのか分からない。
『深夜のお兄ちゃん』だと思っていたCreepy nutsが、ぐんと遠くに行ってしまった気がする。いや、Creepy nutsは元々うんと遠くにいたのだ。Creepy nutsがこちらに歩み寄ってくれていただけなのだ。それが、通常の距離に戻っただけなのだ。そう分かってはいても、やはり悲しいものは悲しいし、寂しいものは寂しい。

次の火曜日が来れば、またCreepy nutsのラジオの最新回が上がってしまう。そうすれば、今回の卒業発表ラジオは消えてしまう。
一生それを聴かずに、私の中で「終わるらしい」で止めておいてもいい。でも、ラジオというのは『今』を聴くコンテンツだ。『今』を聴き、『今』を噛みしめて、『今』を誰かと共有するコンテンツだ。
だとすれば、今この卒業発表を聴くことで、Creepy nutsの『今』を聴くことができる。『今』はいつか『あの時』になり、それは思い出になっていくのだろう。

明日にでも、Creepy nutsの卒業発表を聴こうと思う。それがきっと、『ラジオ』の一番の楽しみ方だから。

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