インターネットという、いわゆる『言葉の海』にどっぷり浸かってしまった私たちにとって、『言語化』はまるで神様のように見える。言語化はカッコいい。ぼんやりしていた感情や気持ちを、今存在する様々な言葉を使って、あるいは新たに言葉を作って、的確に表現する。文字を介したコミュニケーションが主流になってきた現代、『言語化』はある意味必須科目なのだ。
私は、「オードリーのオールナイトニッポン」が大好きだ。毎週土曜日の深夜、鬱々とした気持ちを肯定してくれる若林さんのトークと、今の悩みの何もかもがちっぽけに思えてくるような春日さんのトークに、まるで自分もこの世界に居場所があるかのような錯覚を覚える。
若林さんは、言語化のプロである。
人間の持つ喜怒哀楽を、さらに細分化して伝えてくれる。腹が立ったことを、ただ「腹が立った」と表現することは少ない。ここがまるで○○のようでムカつく、○○を見た時と同じ不快感を覚える、など、こちらにも伝わるように教えてくれる。嬉しかったことも悲しかったことも感動したことも、同じように細かく噛み砕いて、聴いている私たちも同じ気持ちになれるようにしてくれる。
若林さんのトークを聴いていると、普通以上に感情が揺さぶられる。同じ熱量になれる。
そしてそういったトークを聴いていると、おのずと若林さんに憧れるようになっていく。私も、あらゆる現象を『言語化』したい、と思うようになっていく。
さて、そんな「オードリーのオールナイトニッポン」で、少し前から新しいコーナーが始まった。『言語化できない』という名前のコーナーだ。
このコーナーは、リスナーが感じた「言語化できないけど妙に好きなこと・嫌いなこと」をオードリーの2人が言語化して解決する、という趣旨である。
このコーナーが始まった当初、私はとてもわくわくした。あの、言語化のプロの若林さんが、私も感じているもやもやをずばっと言語化してすっきりさせてくれるに違いない、と。
その予想通り、始まってすぐはとても楽しかった。これはこういう気持ちなんじゃないか、これは○○と同じだからこういう感情だろう、などとシンプルな言葉に言い換えられるたび、心の中で「へぇボタン」が鳴りやまなかった。
しかし、最近になって、このコーナーで感じる私の心の高揚感が下がってきている。どうしてだろう、と考えた時、今日のタイトルを思いついた。言語化にはパトス、つまり情熱が無い。
確かに、「的確に伝える」ということは大事だし、「感情を言葉で表す」というのも特殊能力のようでカッコいい。でも、本来、感情は「感情」であって、言葉で表すようなものではないのだ。感情とは人間が何かの現象に出くわした時に「感じるもの」である。瞬発的で、瞬間的なものなのだ。
しかしそれを『言語化』しようとすると、感じたその瞬間だけを切り抜き、引き延ばし、俯瞰で観察し、冷静になって、脳の中の辞書の中から言葉を引っ張り出さなくてはいけない。そもそもの話、『言語化』に感情は必要ない。言語化に必要なのは言葉だけであって、そこに感情が入ると適切に言語化できなくなる。
つまり、感情と言語化は本来相容れないものなのだ。それこそ、ラジオなどで自分の感情を的確に相手に伝えなければいけない場合を除いて。
私は、この世の全ての現象は言語化できると思っていた。そして、言語化すべきだとすら思っていた。でも、そうではないみたいだ。言語化は、美味しい料理である「感情」を冷ましてしまう。
だからもう、何もかもを言語化しようとするのはやめようと思う。私は、言葉の隅々に流れる情熱を、パトスを、大事にしたいのだ。
mazireal