北風は吹雪くのをやめ、カシオペア輝いて


中学生の頃に好きだった音楽を高校になっても好きでいることはなんだかカッコ悪い気がしていた。そうして随分気取った音楽を聴いていた気がする。当時まだ編集長じゃなかった山崎洋一郎が雑誌「ロッキングオン」で推していたシガーロスを聴いたりして、自分がいかに周りと違う人間なのかをアピールしていた。大学生になってシガーロスがあまりにもポップスに寄ったアルバム(裸のジャケット)を発売した時、当時ナゴヤドームの近くあったHMVでそれを試聴した僕はそのまま肩をすくめて下宿へと帰っていった。


あれらの行い、儀式になんの意味があったのか今となってはよくわからない。あの頃は飽きもせずフランス映画を立て続けに2本も3本も見ていた。「去年マリエンバートで」を最初から最後まで眠ることなく鑑賞し切った初めての人類は僕だったのかもしれない。日活ロマンポルノにこそ映画の核心であると「あえて」それらを見続けたかと思えば、キェシロフスキ、カネフスキ、タルコフスキの三大なんとかスキを網羅していた。本当にくだらない時間だった。


普通の読書好きが嫌でも通らざるを得ないような小説を投げ出して、初期ドイツロマン主義に没頭した。シュレーゲル兄弟、ノヴァーリス、ティーク、後の世に彼らの名前をあえて省みようとする人がいなければいないほど高く飛べる気がしていた。そして驚くべきことに、彼らの哲学を昼も夜も考え続けた結果、文字通り、狂気に堕ちた。名古屋という都市の端、赤池駅のゲームセンターで音ゲーに明け暮れ、そのまま終電を無くせば隣のマクドナルドで朝までノヴァーリス全集を読んだ。あの時僕はヴァルター・ベンヤミンの「ドイツ悲劇の根源」の序文や「ドイツロマン主義」をほとんど十全に理解していたような気がする。そうして、そういう生活が続いた後、ほとんど意識というか自我のようなものがなくなり、気づいたら閉鎖病棟の天井を見上げていた。


人生とはチョコレートの箱のようなもので開けてみるまで中身がどうなっているのかわからない、とはフォレスト・ガンプのセリフだった気がする。僕の実感としては開けたところでそれがなんなのか分からないし、今でもそれらがなんだったのかは分からない。一つわかったことは、兎にも角にも金を稼がねばならないことだけだ。この歳になって。でも実際そういうものなのかもしれない。悲劇ぶったつもりはないけど、多かれ少なかれそういうものなのかもしれない。そんな気がしてくる。


もう一つわかったことは中学時代に好きだった音楽を今になって聴いてみると、好きになるのには好きになるだけの理由があるのかもしれない。

北風は吹雪くのを止め  カシオペア輝いて
  恋人たちは寄り添って  静かに歌うのでした

ようやく中学生の頃の自分を少しだけ理解した気がして、そういうのも悪くないな、と思う。

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