相も変わらず人びとの暮らす家々の戸口へ食料を運ぶ仕事をしている。まだ、道路を走っていてもほとんど同業者とすれ違うことのなかった一昨年と比べて事情は様変わりしてしまった。混雑する大通りから一つ入った生活道路で同業者とすれ違い、挨拶をする。店舗でも同業者と会うことが増えた。もともと人と上手く話すことができないからこの仕事をやっている僕としてはあまりありがたい時間ではないが、良くもない景気の話をする。
───さっぱりですね
──さっぱりだね
昼食時はオフィスへの配達も多く、生命保険会社のオフィスの受付でバッグの中に入っている唐揚げ弁当の行き先を尋ねる。今日はひどい雨で、受付の女性もレインウェアからフロアに滴る雨の雫を気にしながら「誰か頼みましたか」と少し声を張る。すると僕と同い年くらいの男性がやってくる。
───あー、おれおれ
──野田さんかぁ、もう二時なのに今から食べるんですか?
───仕方ないだろ~? 忙しかったんだから
──なに頼んだんですか? あ、受け取ってあげないと。待ってますよ
できるだけ濡れないようにキツく絞った袖口から雨の雫が垂れそうになるのを上手く誤魔化し、弁当を渡す。愛想よくお礼を言って、足早に階段を降りる。「どうも~」と受け取った男性はやはり僕と同じくらいの年に見えた。階段を降りながら、そういえば自分にもこういう人生があったのだろうかと考えてみる。あまり想像がつかない。
20代の前半に付き合っていたある女性と、これからも長い付き合いをしていくために、と、一度だけ就活をしたことがある。その頃はあまりこんなふうに自分のことを突き放して考えることができなかったから、恥ずかしくていえなかったのだが、試験会場や面接会場に行くたびに駅やパチンコ屋のトイレで吐いていた。リクルートスーツを着てしゃちこばった人たちに囲まれていると「あれやばいよね」と何処からともなく聞こえてきた。「いや~あれはないっしょ」「なに考えてんだろうね」「頭おかしいのかな」そういう言葉がいわゆる「幻聴」だということを知るのは随分後の話で、僕にできることは駅やパチンコ屋のトイレに駆け込んで何かから逃れることだけだった。彼女との関係がどうなったかなんて書く必要もないだろう。
でも、「自分にもこういう人生があったのだろうか」と考える時、感傷的な気持ちでそのようなことを自問することはない。自販機でボスのレインボーマウンテンを押した後、やっぱりゴールデン微糖だったかな、と少し気持ちがつっかかる、その程度のことだ。その選択はやはり、なされるべき過程を経て、なされたのだ。これは僕がここ10年ほどかけて学んだ、一番たしかで、美しい答えなのかもしれない。
今日は酷い雨だったから、それなりに忙しく働いていたが、ここ最近はもうめっきりダメで、公園近くの道路傍に停めたカブのシートでKindleを読んでいたらいつの間にか帰る時間になっていた、なんてことはザラだ。つい先日中島らもの「今夜、すべてのバーで」を結局最後までカブのシートの上で読み切ってしまった。本当は今日、昼の終わりから夜のはじまりにかけての、このほとんど暇な時間を使って「今夜、すべてのバーで」がどれほど美しい小説だったかを書こうと思ってノートパソコンを開いたのだが、残念ながらもうそろそろ生乾きのレインウェアに袖を通さなければならない。
コップに透明な液体をいっぱいに注ぎ、口もとへもっていく。細く長い滝を、嚙みながらゆっくりと流し込む。半分くらいを一息で飲んだ。胃の中の小さな火が、野火のようにだんだんと燃え広がり、胃全体があたたかくなった。胃はおれの体の中で、猫のように気持ちよさそうなまどろみを始めた。酔うというのは、体が夢を見ることだ。
中島らも. 今夜、すベてのバーで 〈新装版〉 (Japanese Edition) (p.240). Kindle 版.
中島らもの小説はアルコールの話というよりはアルコール依存症の話(それも恐ろしく救いようのない)だ。解説で町田康も書いていた気がするが、教養小説的な面持ちもある。ただ仮にこの美しい小説に励まされたり、慰められたり、許されたような気になる人がいたとして、それは彼が理路整然とアルコールとの向き合い方のイロハを教えてくれるからでもなければ、依存症の恐ろしさやアルコール離脱症状のとんでもなさを突きつけてくれるからではないと思う。多分だけど、それは中島らもが酒を心の底から愛しているから何だろうな、と思う。そういう人でなければ上のような文章は書けない。