文学極道とB-REVIEW


「あの頃は良かった」なんて言葉をあまり簡単に使うべきではないとは思う。ただ僕が十数年間を過ごしてきたネット詩/ネットポエム界隈は縮小を続けている。僕が詩を書き始めた当初、お世話になったサイトで存続しているのは現代詩フォーラムだけで、最終的に運営側に回った文学極道は2020年の年末に新規投稿を凍結した。「ぽえにーく」は当時から更新は途絶えがちであったが、現在別の方がぽえにーくの「即興ゴルコンダ」を引き継いで(仮)として(投稿期間などをかなり緩めて)続けている。ぽえにーく本体はもう無い。未詳24は僕が詩を書き始めた時にはもう更新は止まっていたんじゃないかな。メビウスの「プロ詩」とかもよく投稿していたけどもう無くなってしまった。「あなたにパイを投げる人たち」というサイトもあったが管理者がカードの引き落とし日に現金が全くなく、そのままサイトのデータごと消滅してしまったらしい。なんて最低な管理者なのだろうか。


現代詩フォーラムは存続しているが、明らかに利用者は減っている。年間のポイント数推移など見ると見事なほどの「右肩下がり」である。
そんな中唯一「B-REVIEW」のみがある一定の投稿数を保っているとも言える。ただし目下のところ一時期月間200を超えていた投稿が130程度まで落ち込んでいるのを見るとここから利用者が劇的に増えることを期待するのは少々厳しいだろうと思う。


ネット詩黎明期に文学極道などを中心に盛り上がった、「旧来の詩、特に詩壇と呼ばれる硬直した権力機構から、本来の詩を取り戻そう。そしてそれは既存の権力構造の外側に位置するカオス(インターネット)から始まる」というようなアジテーションは陳腐化した。それくらいインターネットは当たり前のものになり、「何か新しい価値が生まれくるカオス」ではないことが明らかになった。それはむしろ全ての創作者にとって必要不可欠なインフラになったのであり、「既存の権力」や「凝り固まった旧来思想」などと対決する矛としてはあまりにも普及しすぎた。


そもそもの問題として「詩/ポエム」の世界において「既存の権力」がエディプスコンプレックスの昇華を実現させるほどの「強大な父親」ではなかった。正岡子規の「歌よみに与ふる書」における和歌信者、古今和歌集の徒と敵視された旧来の詩歌文化における既得権益層は叩けば叩くほど面白い最高の「強大な父親」であったが、詩の世界にはそのような権力構造は存在しなかったとみなすのが妥当だと思う。打破すべき体制がなければ運動は機能しない。そこは目指すべき高みなどない平地だった。


あらゆる空間が平地化した。平地化した場所において唯一正しい言論は「皆それぞれの意見がございまして、それを皆それぞれが尊重して参りましょう」以外のものではない。これは「集落」の掟でありマナーと呼んでもいい。「B-REVIEW」というサイトが「マナー重視」を謳って今も運営を続けているのは極めて必然的な帰結だったと思う。「文学極道」という「運動」が行き詰まりを露呈して、「B-REVIEW」という「集落」が生まれた。「運動」においての唯一の価値は「旧来のものを一掃するほどの新しい価値の創出」であるがゆえに、つまらないものを生み出すものへの罵倒や、揶揄は見過ごされた。そもそも文学極道のトップページには「糞みたいなポエムを投稿したやつは月間最低ポエムとして晒しあげる」と書いてあったと記憶しているし、月間最低ポエムの晒し上げは実際に二度ほど行われた。


「集落」と「運動」この両者を比較してどっちがより優れているか、どっちがより人々の幸福に寄与するか、などと論ずることに意味はない。消防車と救急車を比較するようなもので、「集落」と「運動」はそもそも目的が違う。たまに「B-REVIEW」という「集落」に「文学極道」的な「運動」の価値観を持ち出して「もっと苛烈で、刺激的な賞レースをやってはどうか」という提案がなされることがあった。これらの倒錯は「集落」と「運動」を取り違えている。つまりそもそも交わらない二つの価値観の良いとこどりを企図している。これらの試みは「賞金」が設定された時以外はうまくいかないだろう。随分と即物的な話だが、それらの界隈に興味のない人たちを振り向かせるには彼らとの共通言語である「経済的価値」という指標を使う以外はない。「運動」が自らの内部に価値を作り出す自走機構であるのに対し、「集落」は「皆それぞれの価値がある」という共存のための機構なので、新たに価値を作り出すためには賞金を出すというシンプルな構図に帰着する。故に「集落」の末路は縮小再生産の様相を呈する。価値が不足してマイナスのスパイラルに陥る。


逆に「文学極道」は途中で倒すべき敵を無くし「集落」へと不時着しようとして自壊した。誤解のないように言わせてもらうなら、「運動」とは全てそのような末路を辿るものなのだと思う。個人的にはその「末路」に見出された泥棒氏やゼンメツ氏などの詩を読んでいると、文学極道の自壊はとても祝福された自壊であるように感じる。まあそれはそれとして、文学極道は終焉するべく終焉した。


僕は「文学極道」「B-REVIEW」どちらも投稿したこともあるし、ありがたいことに賞を受けたこともある。評定者として選を出していたこともある。選評は自ずと「運動」においてはあるべき詩の提示となり、「集落」においては熟読となる。個人的には作者が書いたものを余すことなく読み尽くし、更に作者が気づいていないかもしれない真実を見つけ出すのが好きなので、熟読スタイルの方が肌に馴染む。ただ一方で僕の批評が褒めてもらえたのは「運動」の時だった。こういうのはままならないよな。


どちらがいいとか、悪いとか、そういうことを話すことにほとんど意味などないが、もし「集落」の中で「苛烈さが足りない」と思っていたり「運動」の中で「もっと落ち着きたい」と思っている人がいたら多分あなたはいるべき場所を間違えている。まぁでも実際のところ、詩に限らず、あらゆる旧来の芸術においてフロンティアがどんどんなくなっているように感じる。そういう意味で苛烈さを求める人たちの居場所がなくなっているのだろう。

最後に、誰かを傷つけたりせずに苛烈であるにはどうするべきか、に答えると「独りでやれ」となる。

3件のコメント

  1. 僕がこの場所を見つけたのはネット上にある詩人の居場所を探している道中の出来事でした。

    人が出会う場所としてのネット空間が今でもよくわからずにいます。の場所を見つけられてよかったなぁ、と思える何か出会いのようなものがこの場所にあったことくらいしか、僕にはわかりません。

    コメントひとつにしても気を張る私です。正気を手放してコメント送ります。

  2. おっとすみません気づいておりませんでした。

    ほんとはネットで人と出会うべきではないと思うんですけど、ネットを通じて詩や大切なものと出会ったのもまた事実なのですよね。

    なんかそういう二律背反のグレーゾーンにこの場所を置きたいとずっと思っているのでした。

  3. 詩と吹奏楽と学問がなかったら、僕にやれることは全くありません。詩が全てを生んだのです。
    詩が親であり、文学極道もB-REVIEWもみんなかわいい子です。
    手で字を書くという行為も、僕は重視しており、ネットだけで完結する詩というのは、間違っていると
    思います。脈々と、ノートに詩を書くという行為が続けられるといいと思いますし、私は生きるということを、
    そのスタイルやさらにその管理を、続けて行くだけで、立派に生きて死んでいけると思っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です